
リーダーたちの羅針盤
「枠」を超え複合施設型経営改革
老舗旅館から地域創生の拠点へ
株式会社和多屋別荘
小原 嘉元代表取締役社長
1977年、佐賀県嬉野市・和多屋別荘の創業者・小原嘉登次の孫、2代目社長小原健史の長男として生まれる。2000年に大学を中退し、株式会社和多屋別荘へ入社。退職後、旅館再生コンサルタントの道に進み、約10年にわたり全国の旅館再生に携わる。2013年に和多屋別荘に戻り、代表取締役社長に就任。2度目の経営不振に陥った同社を立て直し、うれしの茶など地域の特産品の振興や、旅館内でのサテライトオフィス誘致・開設、日本語学校の開校などこれまでにない事業展開で宿泊業に新たな風を起こしている。2021年、一般社団法人嬉野温泉観光協会の副会長にも就任。
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- 経営再建
- 地域活性化
この記事のポイント
- 異分子と呼ばれ旅館を追い出されて、旅館再生コンサルタントの道へ
- 旅館の経営危機に3代目社長として就任し、地域OSをベースに経営を再建
- 旅館から地域資源を活用する複合施設へ変革
老舗旅館「和多屋別荘」は佐賀県・嬉野温泉で70年以上の歴史を持つ。小原嘉元社長は、経営が危機的状況にあった2013年に3代目社長として就任し、長年携わった旅館再生コンサルティングの経験を生かし事業の再建と黒字化を果たした。旅館業の枠を超え実行するアイデアは、多方面から注目を集めている。

和多屋別荘のエントランス。老舗旅館らしい歴史を感じさせる堂々としたたたずまいだ
佐賀県嬉野市にある嬉野温泉は、開湯して約1300年という歴史ある温泉地で、島根県・斐乃上温泉、栃木県・喜連川温泉と並び、「日本三大美肌の湯」と称されています。
和多屋別荘は、その嬉野温泉で70年以上続く老舗旅館です。約2万坪の敷地内には嬉野川が流れ、客室数は100室を超えます。
私はこの旅館の3代目になります。2013年、36歳の時に実父から社長を引き継ぎ、傾いた経営を立て直し、同時にチャレンジングな取り組みを行ってきました。
例えば、20年から本格スタートした旅館内サテライトオフィスの誘致・開設は、温泉旅館では先駆けとなる試みで話題になりました。
テナントリーシングの一環で、世界的なパティスリーショップ「ピエール・エルメ・パリ」や、お香の大手メーカー「日本香堂」、嬉野市のお茶農家「副島園」のショップを誘致しました。また、旅館経営者、お茶農家、肥前吉田焼作家を中心に有志メンバーで観光体験「ティーツーリズム」も運営しています。
25年4月には、和多屋別荘の館内で、文部科学省認可の日本語学校を開校しました。旅館に学校を開校するという新しい取り組みで、外国人留学生が学びながら嬉野市で働き、卒業後には嬉野市への定住・就労をサポートしてもらえる採用直結型の人材育成モデル構築を目指しています。
いずれも、温泉旅館としては異例尽くしの試みでした。たくさんのメディアに取り上げられ、全国の自治体や企業が視察に来ました。本業の宿泊業でもリピーターを中心にお客さまも順調に増え、一時は危機的状況だった経営も、現在は安定しています。
異分子と呼ばれた
私は経営者になるための特別な教育を受けたことはありません。それどころか、旅館を継ぐ気など全くなかった。そもそも20代前半までは世間知らずの"放蕩息子"でした。
創業者である祖父からも2代目の父からも、子どもの頃から一度も和多屋別荘を継ぐように言われませんでした。そもそもこの旅館は、自分にとって存在しているのが当たり前で、「自分が継がなければ、守らなければ」という感覚自体がなかったのです。
高校卒業後は、なんとなく東京の大学に進学。将来なりたいものもなく、これを学びたいという目的もなかった。すぐにつまらなくなり中退してしまいました。
とはいえ、嬉野には戻りたくない。そんな状況を見かねた父が、福岡・博多の営業所内に「インターネット事業部」をつくり社員として所属、社員寮だったマンションを改装して住んでいました。和多屋別荘のホームページを作りながら、そのマンションで暮らすことになったのです。21歳で3LDKのマンションに家賃ゼロで住み、30万円の月給をもらう。今思えばかなり恵まれた環境なのに、当時は「こんな安月給でどうやって生活すればいいのか」と文句ばかり言っていました。
その頃、和多屋別荘の経営状態は火の車でした。バブル崩壊後の債務超過が解消できず、苦しみながらなんとか経営を続けてきたものの、限界を迎えます。インターネット事業部ができてわずか2年後、事務所兼住居だったマンションは売却され、約200人いた従業員の4分の1に当たる50人を解雇しなければならないほど切迫していました。
そんな状況でも、私の危機感はゼロでした。それどころか、マンションを売却されたことに腹を立て、父の下を訪れ「財産分与として和多屋別荘の一部をよこせ」と言い放つ始末です。分社化してそこを経営する社長にしてくれるなら和多屋別荘に戻ってきてやってもいい、と要求するぐらいズレていました。
当時、経営の立て直しに雇われた旅館再生コンサルタントは、父にこう切り出しました。
「この異分子を切るか、会社を取るのか、今決めてください」
もちろん異分子とは私のことです。私は思いました。この人は何を言っているのか。父は息子を選ぶに決まっている。しかし私の失笑をよそに、1週間後、私が和多屋別荘を追い出されることになった。まさに青天のへきれきでした。怒り心頭で「もう二度とここには戻らない!」と嬉野を飛び出し、福岡に住む実母の下へ身を寄せました。
なけなしの貯金でインターネット事業の会社を立ち上げたものの、知識もスキルも営業力もないのにうまくいくはずがありません。あっという間に生活は行き詰まりました。ポケットの小銭が全財産、という日もあるほどの困窮した日々が始まりました。
修業先で改心、旅館再生コンサルティング会社立ち上げ
起業して3年ほどたった頃、私の苦境を見かねた母が、一度父と会うよう言ってきました。父に会うと、助けてくれるどころか、以前私を「異分子」呼ばわりしたコンサルタントの下で修業しろと突き返された。頭にきてすぐに席を立ち帰りましたが、その夜、一番の理解者だった姉から「それは良い考えだと思う」と諭され、はたと思いました。「もしかしたら自分は今、人生を踏み外しかけた状況なのではないか」と。
考えを改め、旅館再生コンサルタントの下に出向くと決めました。ですが、さすがに自分を異分子扱いしたコンサルタントの会社で働くのには抵抗がある。ひとまず、父親の顔を立てられればとの思いで向かいました。
しかし、旅館再生コンサルティング会社に行き、一気に目が覚めます。社員数人の小さな会社にもかかわらず、全員が経営に苦しむ旅館を立て直そうと全力で取り組む姿を目の当たりにしたのです。この頑張りに対し、ようやくお金をいただけるのだと気付かされた。それまでの自分の甘さを痛感させられました。
そこから1年間、無給で旅館再生コンサルティング会社での修業に励みました。昼夜関係なく365日、夢中になって働きました。ノウハウを身に付け、徐々に頑張りを認めてもらえるようになった。私を異分子と呼んだコンサルタントとも、少しだけ仕事をさせてもらうようになりました。

和多屋別荘の社長に就くまではコンサルタントとして活動。その経験が現在の経営に生きる
1年後、私は独立し、旅館再生コンサルティング会社を起業しました。そこから約10年間、培った経験とスキルを生かし、70軒ほどの旅館の再生を手掛けました。
そんなある日、知人を介して「和多屋別荘の経営が危ない」という話が伝わってきました。13年のことです。その時初めて和多屋別荘が2度目の経営不振に陥ったのを知りました。
私が追い出された後、一時的に経営を立て直せたものの、リーマン・ショックや東日本大震災の影響で客足が遠のき、億単位の借金を抱えてしまったのです。私はこの危機的状況を自ら救うべく実家に戻ると決意、3代目社長に就任しました。
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企業情報
- 社名
- 株式会社和多屋別荘
- 事業内容
- 旅館業、飲食事業、リーシング事業
- 本社所在地
- 佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙738
- 代表者
- 小原嘉元
- 従業員数
- 100人(アルバイトを含む/2025年5月現在)