リーダーたちの羅針盤
郷土の未来と
誇りのために
食と農の
魅力発信が原点
オトワ・クリエーション
音羽 和紀代表取締役
日本有数の料理人であり経営者であるオトワ・クリエーションの音羽和紀代表取締役。地方に生きる料理人として何ができるかを問い、進化を続けるレストランは、国内外からその料理を味わうために人が集い、この地の誇りとなっている。
- リーダーたちの羅針盤
- 事業承継
- 人材育成
- 地産地消
- 地域貢献
この記事のポイント
- 宇都宮でフランス料理店を営む、オトワ・クリエーションの音羽和紀代表取締役
- 大学卒業と同時に渡欧し、三つ星レストランで修業を積む
- 帰国後、宇都宮にレストランをオープン。地産地消、食育に取り組む
栃木県宇都宮市、JR宇都宮駅から車で10分ほどのところに「オトワレストラン」はあります。
1981年に最初のレストランを開業して以来43年間、地元でフランス料理を提供し続けています。2014年には、世界の厳選されたホテル・レストランで構成されるルレ・エ・シャトーに、日本では14番目に加盟しました。23年にはジャパンタイムズが主催するデスティネーション・レストランを受賞。私自身は、24年に黄綬褒章の栄誉にあずかりました。
私は、もともとは料理人を目指していたわけではありません。小さい頃は昆虫に夢中で虫博士になりたかった。「ファーブル昆虫記」や世界の昆虫図鑑を読んで、いつか海外に行く憧れを募らせていました。ただ、虫博士で食べていくのは難しい。子どもなりにそう考えていました。
食べるのが好きで、母は料理上手でした。その影響で、高校時代に「料理人になりたい」と具体的に考えるようになりました。父は県庁の職員、母は豪農の娘でした。周囲の人と一線を画し、ときには横柄にも見える父に対し、母はいつも周囲の人のおかげだという姿勢でとにかく穏やかな人でした。料理人とは全く関係のない家庭でしたが、レストランをやっていく上で両極な2人を見て育ち、自分にとっては良かったと思います。世間にはいろいろな人やお客さまがいると、両親を見て知ることができたからです。
高校を卒業したらすぐに料理人として修業するためにフランスへ行きたいと思っていましたが、親に大学だけは出ておけと言われて進学しました。一方、海外に行く準備として自分の身は自分で守らなくてはと、空手を始めました。結果的に、ドイツやフランスでの修業時代、現地の人に空手を教え生活費を稼ぐ助けになりました。
生け花の師範だった叔母の勧めで、高校1年から大学を卒業するまで生け花も習いました。今思えば、この経験は盛り付けのセンスを育むことにつながったかもしれません。
料理人ならフランスを目指せ
海外に出るにあたって難航したのが修業先探しでした。
私が渡欧した1970年当時は、1ドル360円の時代です。今のようなワーキングホリデーも、修業先を紹介する制度も整っていません。つてをたどってなんとかドイツのキールにあるレストランを紹介してもらい、船とシベリア鉄道を乗り継いで向かいました。ここで2年間修業したのち、修業の場をスイスのジュネーブにある「リオン・ドール」に移しました。この頃、料理人になるならフランスを目指さねば、という考えを持つようになり、フランス語を習い始めました。フランスの有名なレストランを探し、60通以上の手紙を出しました。しかし、どこも受け入れてくれなかった。諦めきれず、当時、同じ厨房にいたフランス人の料理人たちに「フランスで一番のレストランで学びたい。一番、厳しいところで学びたい」と話すと、全員が「それだったら『アラン・シャペル』だろう」と口にしました。
アラン・シャペルのオーナー、アラン・シャペル氏はすでに他界していますが、今なお「厨房のダ・ヴィンチ」と語り継がれる料理界の巨匠です。当時は、フランスのリヨン近郊のミヨネーという小村にあるご両親の店を継いでまだ2、3年でしたが、すでに料理界では広く知られる存在でした。
私はシャペル氏の
パン作りから始まり、3年半で魚料理以外、厨房の全てを経験しました。シャペル氏は完璧主義で知られ厳格でしたが、つらいと思ったことはありません。シェフにとって修業した店は経歴として刻まれます。技術を身に付けられる上、多少なりともお金までもらえる。当時は少しでも時間とお金があれば、食材や優れた料理を求めて産地や店を訪ねました。今も店で使っている赤鍋は、当時買ったものです。
アラン・シャペルの哲学に衝撃
フランスで学んだのは料理の技術だけではありません。
どんなに小さな村にも、受け継がれてきた土地の文化があります。村の住民が、鶏、トリュフ、オリーブオイル、ワインなど、地元の食や農業を誇りにしていました。それぞれの村にはアラン・シャペルのような有名なレストランがあって、そこを目指して世界中から人々がやってきます。人々が来ることによって、地域の観光産業も盛り上がります。
このように、食と農と観光の3つが組み合わさって経済が回るのをフランスで学びました。
ミヨネーの住民はアラン・シャペルを指して「この店は地域の誇り」と語ります。シャペル氏も、地元の食材を大切にし、生産者に敬意を払う。地元の産物を知り尽くし、自ら生産者の元を訪れて新鮮な食材を手に入れ、食材の個性を生かした料理法や盛り付けを考えるのです。
この経験によって、「自分が日本に帰って独立するときには地元で」という思いが強くなっていきました。
食を通して社会に貢献する
フランスから帰国したのは78年、30歳のときです。
料理を作れるだけでは店の経営はできないと思い、「ヒト・モノ・カネ」について学ぶべきだと考えました。そこで、ある程度の従業員が働き、売り上げ規模が大きい会社を経験するのが良いだろうと、和菓子や中華まんなどの食品製造とレストラン経営で知られる新宿中村屋(東京・新宿区)に入社しました。
主にマネジメントやマーケティング、新規事業などを担当して会社経営を学びました。給料をもらいながら、フードビジネスの大学院に行ったようなものです。受け入れてくれた中村屋には感謝しています。
81年、34歳で地元・宇都宮市に最初の店、「オーベルジュ」をオープンしました。建物は2階建ての一軒家。フランスの一流レストランの多くが田舎にあるオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストラン)からスタートしていることにちなんだ名前です。
欧州での経験が生きました。地元の産地を訪ねて食材を求め、風土に合った料理に仕上げ、地域に根付いた店をつくる。今で言う「地産地消」を当時から実践しました。栃木はとちぎ和牛、山ウド、ヤシオマス、うなぎ、那須高原産チーズなど名品が数多い。地元で育った食材を使えば、生産者と共に地域の魅力を発信できる。グローバル化がうたわれる時代こそ、ローカルの気候が育んだ文化、風土、産物、料理を大事にすべきだと思います。地産地消は食材の輸送コストも少なく、CO2排出量も抑えられる。SDGsにも貢献できます。
83年から食育にも取り組みました。この頃はまだ食育が一般的ではなく、日本でも草分け的存在だったと自負しています。
当時は核家族や孤食が進み、荒れる学校や家庭内暴力が問題になり始めた頃です。創業してまもないタイミングでしたが、何かできることをしなければと考え、親子クッキング教室を始めました。一緒に作って一緒に食べる行為が、つながりや安らぎの場を生むと思ったからです。
その他にも、体験授業や親御さん向けの講演会など、食を通じて私にできる社会貢献活動の幅を広げました。地元の小学校で子どもたちとフランス料理を作るイベントは、今や恒例の授業になっています。「食べる」「作る」という楽しさを伝え、地元の食材の豊かさに気づいてほしい。その思いで続けています。
フランスでの修業以降、地元に対して自分は何ができるか、何をすべきかが、私の行動指針の一つになっています。
事業を子へつなぐ
オーベルジュ創業以降、規模の異なるレストランやデリカテッセンなど多店舗展開し、閉店も経験しました。その集大成が、グランメゾンと認めてもらっているオトワレストランです。
構想は30代の頃からあり、50歳をめどに実現させたいと考えていました。実際にこの店を開業したのは2007年、59歳のときです。
東京のような大きな商圏ではない宇都宮で、しかも50席という規模の店を持つことに対して最初は誰しもが反対でした。ですが、この地で正統派のフレンチレストランとして地元に愛され誇ってもらえる店をつくり上げたい。子どもたちやその次の世代へ引き継いでもらいたい思いが勝った。おかげさまで県内外から、幅広い世代のお客さまに来ていただいています。
現在は長男がシェフを務め、次男がサービスを担っています。長女も店のウエディング・プランナーをしながら、ルレ・エ・シャトーの国際執行委員として世界を飛び回っています。
どうして子どもたちがオトワレストランに関わってくれたのか。特別なことは何もしていません。ただ小さい頃からよく家でレストランや料理について楽しく話すようにはしていました。
家族が一つの事業に関われるのは幸せですが、半面、難しさもあります。
親子とはいえ、意見が一致するとは限りません。特に料理に関しては、世代も経験も修業で学んできたスタイルも違います。お互いに「そうじゃない」と思うときもあるでしょう。ぶつかるのではなく、こういうやり方もある、こんな見せ方も面白いかも、といった感じで、やんわりと折に触れて伝えるように心掛けています。それを何度も辛抱強く繰り返すことで、少しずつ伝わるように思います。特に、厨房とサービスを子どもたちに任せてからは、自分の考えの押しつけにならないように、彼らの立ち位置を侵さぬように努めています。
人材確保の面では、全スタッフに気持ち良く働いてもらうため、常に店がキレイでオシャレであるように、メンテナンス含め気を配ってきました。誰でもうらぶれた場所よりも、美しくかっこいい舞台で働きたいはずですから。
コミュニケーションも大切だと思います。入りたての新人とも積極的に話をします。雑談でも意見でもとにかくよく話を聞きます。そして怒鳴らない。どれほど厨房がてんてこ舞いになっても声を荒らげない。おかげで、人材確保が難しいと言われる飲食事業で、全国からこの店で学びたいスタッフが集まってくれています。
次世代に、夢を持って自分もこの仕事をやってみたいと思ってもらうには、お客さまが店に来て事業として成功させるのが一番のパワーになります。訪れたくなる味を提供し、この地に暮らす人や店で働く人が誇りに思える店にしていくことが、私の使命だと思っています。
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「地元の人や
店で働く人が
誇れる店に
していくのが使命」
音羽 和紀
栃木県生まれ。大学卒業後、1970年渡欧。ドイツのキール、ケルン、スイスのジュネーブの名店で修業し、フランスのリヨン「アラン・シャペル」へ。帰国後は「新宿中村屋」を経て、81年にレストラン「オーベルジュ」を宇都宮に開店。いくつかの店舗を立ち上げた後、2007年に「オトワレストラン」をオープン。栃木の食材の魅力を美しいフランス料理として発信する地産地消のパイオニアでもある。24年美食文化の発展に貢献したとして黄綬褒章を受章。
企業情報
- 社名
- 株式会社オトワ・クリエーション
- 事業内容
- 食のコンサルティング・企画等
- 従業員数
- 6人(2024年10月現在)
- 社名
- 株式会社オーベルジュ
- 事業内容
- レストラン運営
- 従業員数
- 40人(2024年10月現在)
- 本社所在地
- 栃木県宇都宮市西原町3554-7
- 代表者
- 音羽和紀