偉人の軌跡をめぐる旅

近江商人を訪ねて
近江[ 滋賀県 ]

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大坂商人、伊勢商人と並び日本三大商人の一つに数えられる近江商人。
"三方よし"に象徴される勤勉実直な商売を旨として江戸期から全国に出店し
近代にかけて目覚ましい活躍を見せた。
現在の大企業には、その系譜を近江商人にたどる例も少なくない。
琵琶湖の東側、近江商人を多く輩出した湖東地区を訪ねた。

全国で行商しながら地域経済を盛り立てた近江商人の軌跡をたどる

近江商人とは、中世から近代にかけて、現在の滋賀県である近江国に本宅や本店を構え、全国へ行商した商人の総称だ。発祥した地域によって八幡商人、日野商人、湖東商人などと細分化され、取り扱った商品や活動した場所に違いがある。

近江商人発祥の契機となったのは、豊臣秀次が築いた八幡山城と城下町、それらと琵琶湖とをつなげる運河、八幡堀の建設だ。全長約4.75km、幅約15mのこの堀の開通によって湖上を行き交う船が城下内に寄港できるようになり、城下町には人・物・情報が集まった。町はやがて大坂と江戸を結ぶ重要な交易地として発展する。

戦後は運河の機能を失い荒廃したが、1970年代に市民による堀の修景運動が活発化した。趣のある風景が保全され、現在は時代劇のロケ地としても活用される。

八幡堀から碁盤の目状に広がる城下町を拠点に活躍したのが八幡商人だ。畳表たたみおもて蚊帳かや麻布まふ、呉服などを扱い、大坂や京都、江戸、北海道に大店おおだなを出して発展した。往時の風情を残す新町通りには、畳表と蚊帳の商いによって財をなした西川利右衛門りえもん(屋号は大文字屋だいもんじや)の本宅が、旧西川家住宅として公開されている。

左/床の間には西川家の家訓「道理をわきまえて商売をすればおのずと利益はついてくる」との意を記した掛け軸が掲げられる
右/店舗と居宅からなる旧西川家住宅は突き出した座敷玄関が特徴だ

西川家は1706年に建築された。黒塀にトガ材を使った重厚な構えの京風建築が、典型的な近江商家の面影を残す。珍しい3階建て土蔵にも当時の隆盛がしのばれる。はね上げ式扉の入口は、店に到着した大八車が即座に乗り入れられる仕組みだ。母屋と店が連結する端正な空間や、客人を迎えるときにだけ表通りに現れる玄関口など、機能性の数々にも目を見張る。

八幡堀のほとりには擬洋風建造物がある。子どもの教育の充実を願って建てられた白雲館はくうんかんだ。1877年に八幡東学校として落成し、建築費用のほとんどが近江商人の寄付による。近江の未来に投資する姿がここにも残る。

左/古い町並みが状態よく保存されている新町周辺は、国の重要伝統的建造物群保存地区だ
右/八幡堀の横にたたずむ擬洋風建造物は学校として建築された白雲館。近江商人は子どもの教育の充実を図るため、地域に多額の寄付をした

堅実を旨とする商売、"三方よし"の精神は近江商人のふるさとに今も色濃く残る

琵琶湖岸から25kmほど離れた日野地区からは、八幡商人にやや遅れて日野商人が発祥した。蒲生氏の城下町として楽市令が敷かれた日野は諸役免除の特典が与えられ、商工業が発展したが、蒲生家の断絶により一転、町は活況を失う。

日野商人の献金にあてた二宮金次郎自筆の領収証は、近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)に展示される

町民はその苦境に逆に奮起し、地場産品である日野椀、合薬ごうやくである「万病感応丸まんびょうかんのうがん」をはじめとする売薬を持って全国への行商を開始した。上方の商品を関東の地方へ持ち下り、そこで物産を仕入れて上方で販売する「持ち下り商い」を基本に商いを活性化させた。

旧山中正吉邸の豪華絢爛な洋間。良好な保存状態から来客時以外には人が立ち入らなかったことがうかがえる

日野商人は他の近江商人とは異なり、「千両たまれば新しい店を出す」と小型店に力を入れ、関東、東海、東北地方の農村にまで多店舗を展開した。各地で酒や醤油などの醸造業を手掛けるようになったのも特徴的だ。日野商人を代表する旧家、山中正吉しょうきち邸は、近江日野商人ふるさと館の名称で保存公開されている。各地の近江商人に共通するのは、堅実・勤勉・質素倹約・信用第一をモットーとしているところだ。一方で、来客のもてなしはビジネスに欠かせない技術として、豪華な客間を用意し心づくしの対応で実践された。旧山中正吉邸には、そんな近江商人の心意気が色濃く表れる。増築を重ねた建築群には、ボイラー式シャワールームや瀟洒しょうしゃな調度品に彩られた洋間など客人専用の設備が充実する。居住空間との対比が興味深い。

左/酒の醸造で財を成した山中正吉家。元本宅は現在、近江日野商人ふるさと館(旧山中正吉邸)として公開されている
右/旧山中正吉邸の髪結場。日常生活を送る居宅部分は簡素な造りが徹底される
近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)。湖東地方に特有の重厚な農家住宅には、京都宮大工による数寄屋風書院造りなど多彩な特徴が見られる

山中正吉家の本家に当たる近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)に足を運ぶと、美しい庭園を備えた数寄屋風書院造り座敷に息をのむ。日野商人400年の歴史をひも解く資料群もある。当時の生活を肌で感じられる空間だ。

江戸後期になって五個荘ごかしょうや愛知川流域で発祥したのが湖東商人だ。湖東地区では、彦根藩の後援下で麻布の生産が発展した。麻布を持ち下り商品として全国で行商を始め、各地で仕入れた繊維品を異なる需要地で販売する産物廻しの商法に従事した。

五個荘金堂ごかしょうこんどう地区には、湖東商人の本宅と農村集落が一体となった歴史的な町並みが残る。現在、3つの邸宅が五個荘近江商人屋敷として公開されている。そのうちスキー毛糸などで成功した藤井彦四郎邸を訪ねた。広大な池泉ちせん回遊式庭園と総檜造りの建物からなる豪邸は、昭和初期に迎賓館として建てられたもの。客人のもてなしには金に糸目をつけない姿勢が如実に表れる。

約8000m2と広大な敷地の藤井彦四郎邸には、きめ細かく管理された池泉回遊式庭園がある。静かな園内は季節ごとに違う顔を見せる

湖東商人は近江では後発だった。そのため、既存の大店の商圏を避けて脇街道での商売に力を入れた。農漁村の万屋よろずやへの委託販売も積極的に行った。この営業戦略は地方の需要を掘り起こすという現在の商社活動に通ずる。事実、湖東商人からは多くの近代企業が生まれた。伊藤忠兵衛記念館では、その近現代史のダイナミズムを貴重な資料から感じることができる。

地元で商いをする旧家の次男として生まれた伊藤忠兵衛は、15歳で独自に行商を始めると次第に才覚を現し、のちに総合商社の伊藤忠や丸紅へと発展する企業の礎を築いた。二代忠兵衛は呉羽紡績を創設した。

左/登録有形文化財指定の藤井彦四郎邸。中江準五郎邸、外村繁邸と共に五個荘近江商人屋敷として公開される
中/伊藤忠兵衛記念館には当時を再現した店の間がある。斬新な経営手腕はここで発揮されたのだろうか
右/伊藤忠兵衛記念館の蔵には、若い奉公人が学んだ教科書も保管される

近江商人の商いを象徴する、売り手よし、買い手よし、世間よしの"三方よし"は、現存する屋敷や資料を見れば、実践された経営理念だったとに落ちる。現代の商いに照らしても多くの学びを得られるだろう。

ちょっと寄り道

牧場直営レストランで
極上の近江日野牛を

400年以上の歴史を持つブランド牛・近江牛。中でも「近江日野牛」は最高峰の味を探求し、30〜40カ月齢の長期肥育によって完熟させる。牧場直営のレストランならではの、柔らかくうま味たっぷりの肉を堪能できる。

■レストラン岡崎
滋賀県蒲生郡日野町河原2-11
https://www.beef.co.jp/restaurant/

日野牛鉄板焼き定食 3,200円(税込み)

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