仙巌園の庭園から桜島を望む。
    日に照らされた山肌は時間帯によって違う表情を見せる

    御居間は島津忠義が執務に使用した。庭園が最も美しく見える場所だ

    山に露出する岩に彫られた千尋巌。3文字の長さは11mに達する

    桜島シーサイドホテルの露天風呂では、入浴しながら錦江湾の雄大な景色を楽しめる

    偉人の軌跡をめぐる旅

    明治維新の偉人を訪ねて
    鹿児島[ 鹿児島県 ]

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    250年以上にわたり権勢を振るった江戸幕府はペリー提督率いる黒船の来航を潮目に瓦解し時代は明治維新へと突き進む。
    歴史的転換をリードしたのは、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通だ。
    長州藩の木戸孝允と並び"維新の三傑"と称される2人は鹿児島の同じ町内に生まれ、乱世に羽ばたいた。
    2人の鹿児島での軌跡をたどる。

    明治維新の立役者たちを育んだ薩摩の風土と伝統文化にふれる

    鹿児島市街中心部を南北に分けながら甲突川こうつきがわ錦江湾きんこうわんに注ぐ。1828年、河畔の加治屋町で、西郷隆盛は薩摩藩下級城下士の長男として誕生した。明治政府が成立するちょうど40年前だ。西郷誕生の3年後、大久保利通はその近くに生まれ、2人は幼なじみとして成長する。

    薩摩藩には年長者が年少者を教える独自の教育制度があった。郷中ごじゅう教育という。学問はもとより、武術や心の鍛錬を重んじ、互いに切磋琢磨せっさたくまする環境で幾多の優秀な人材が育った。筆頭に挙げられるのが西郷だ。

    薩摩藩の役人として働いた西郷は28歳で藩主の島津斉彬なりあきらに見いだされ、側近となった。西郷は京都や江戸で見聞を広げ人脈を築きながら、着実な出世を果たしていく。

    謁見の間は応接用の大広間だ。和洋折衷の空間に国内外の賓客を迎えた

    西郷と斉彬の交流の舞台となった仙巌園せんげんえんを訪ねた。仙巌園は島津家19代光久によって築かれた島津家の別邸だ。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた庭園は、各藩が競い合った大名庭園の中でも突出した壮大なスケールである。

    御殿は29代島津忠義の代には一時本邸として使用され、国内外の要人を招く迎賓館として活用された。幕末には、斉彬の養女で徳川家定の御台所みだいどころとなった篤姫あつひめ、西郷と共に江戸城無血開城を決めた幕臣の勝海舟が訪れた。維新後には、ロシア皇帝・ニコライ2世や英国国王エドワード8世がそれぞれ皇太子時代に訪れている。

    来客への応接に使われた謁見えっけんの間は天井がひときわ高く、畳敷きで二間続きの大広間だ。菊と桐が彫られた壮麗な欄間とシャンデリアに彩られた空間は、急速に西洋文明を取り入れた往時の趣を伝える。

    左/御居間は島津忠義が執務に使用した。庭園が最も美しく見える場所だ
    右/中庭。池の中には八角形のくぼみがある。風水において八角形は邪気を払うといわれる

    御殿内の柱には11種類の釘隠くぎかくしがある。現代の建築物ではあまり見られない釘を隠す装飾品だ。柱が交差する部分に打ち留める。薩摩焼の桜島大根や双葉葵、桃などの細工があしらわれ、廊下を行く者の目を楽しませる。

    仙巌園の御殿には釘隠が見られる。薩摩焼の桜島大根、神聖な双葉葵、邪気を払う桃など全11種類

    青空は一転、雨模様となった。忠義が執務を行った御居間おいまから、庭園を望むと霞がかった桜島が見える。鹿児島では雨に降られることを「島津雨」と呼ぶ。島津家の祖である島津忠久が雨の降る夜に誕生した故事から、鹿児島では雨は吉兆とされる。端正な庭園にそぼふる雨を、西郷も眺めたのだろうか。

    激動の時代を生きた維新の志士たち郷土には先進的な技術と文化の薫りが漂う

    仙巌園には中国・琉球文化の影響が随所に見られる。背後にそびえる山の岩には「千尋巌せんじんがん」の文字が刻まれる。大きな岩という意味だ。27代島津斉興なりおきの時代に約3カ月かけ、延べ約3900人で造ったという。景勝地の岩に文字を彫る中国文化の影響がうかがえる。

    山に露出する岩に彫られた千尋巌。3文字の長さは11mに達する

    庭園内にある望嶽楼ぼうがくろうで、斉彬と勝海舟は対面した。江戸時代初期に琉球国王から寄贈された東屋だ。床の敷き瓦、内部に掲げられた扁額へんがくに大陸への憧れが色濃く表れる。

    斉彬は維新の志士たちの精神的支柱となった"維新の父"の一人だ。先進的意欲を産業育成にも傾けた。仙巌園の隣地には、日本最初の洋式工場群である集成館を設置し、当時最先端の反射炉も築いた。鉄製大砲の鋳造が目的だ。新しい産業として薩摩切子を生み出し、ガス灯の実験にも成功した。近代化なくして西欧の支配にはあらがえないと考えた西郷と大久保の精神に通底する。

    望嶽楼は、島津斉彬と勝海舟が対面した歴史的な場所だ
    左/高度なカッティングと研磨技術は日本が誇る伝統工芸だ
    右/鮮やかな輝きの薩摩切子。ガラスの厚みを生かして色味のグラデーションを表現した"ぼかし"が特徴だ。180年近い歴史を守る

    仙巌園から徒歩約3分の島津薩摩切子ギャラリーショップ磯工芸館に立ち寄る。薩摩切子は、江戸時代末期に薩摩藩営の窯で誕生した。鮮やかな色被せガラスに多様な文様が彫られる。厚みのあるガラスと、"ぼかし"と呼ばれる色味のグラデーションが特徴だ。1989年、鹿児島県の伝統的工芸品指定となった。

    鹿児島港から約15分フェリーに乗ると桜島港にたどり着く。桜島港から島の沿岸道路を反時計回りに進めば古里ふるさと温泉郷だ。西郷と大久保は共に温泉好きだったという。大久保はとりわけ古里温泉を好んだ。

    古里温泉には現在2軒の宿がある。桜島シーサイドホテルの露天風呂から錦江湾を望み、心地よい時間を過ごす。湯は薄い黄褐色で、とろりとやわらかい。大久保も湯につかりながら、日本を西欧列強に負けない国にする大計を静かに練ったのかもしれない。

    桜島フェリーは、平日昼間は20分間隔、夜は30分か1時間間隔で航行する
    桜島シーサイドホテルの露天風呂では、入浴しながら錦江湾の雄大な景色を楽しめる
    左/西郷遺品の筆と硯。硯は尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)から拝領した端渓硯(たんけいすずり)
    右/西郷南洲顕彰館は、西郷直筆の書などの特別展示も随時開催する

    西郷南洲顕彰館なんしゅうけんしょうかんは、西郷をはじめ明治維新の先覚者たちの功績を伝える資料館だ。西郷は感銘を受けた言葉を書き写したものには"南洲書"、自作の漢詩葉には"南洲"と記した。西郷の手による書や手紙を見ると、身分や年齢にかかわらず人を愛し、信念を貫く性格がうかがえる。

    城山には西郷が最期の日々を送った洞窟がある。1877年の西南戦争において、西郷率いる薩軍さつぐんは九州各地で転戦したのち、鹿児島城下に戻った。城山の洞窟に立てこもり、銃弾に倒れるまで最期の5日間を過ごしたと伝わる。

    城山の中腹にある西郷隆盛洞窟。最期の5日間を過ごしたとされる

    西南戦争で敵味方となって西郷とたもとを分かった大久保は、内政を司る官庁のトップにまで上りつめたが、1878年、西郷の死の翌年に暗殺された。大久保の死の懐には、幼なじみであり盟友だった西郷の手紙があったという。

    鹿児島で生まれ、人民に尽くした明治維新の立役者たちの息吹は、今なお町のいたるところに感じられる。

    城山の展望台から、かつて城下町だった鹿児島市街を望む。約150年前、西郷は桜島を眺めて何を思ったのか

    ちょっと寄り道

    薩摩伝統の味に酔いしれる

    鹿児島の繁華街・天文館で創業78年を数える割烹。伝統の味噌おでんや六白黒豚のしゃぶしゃぶ、錦江湾から揚がるきびなごなど薩摩の名物がそろう。芋焼酎と一緒に楽しみたい。

    ■吾愛人(わかな)本店
    鹿児島県鹿児島市東千石町9-14
    https://k-wakana.com/

    きびなごの刺身 880円(左)
    薩摩おでん三種盛 913円(右)
    (各税込み)

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