足利氏の源流を訪ねて
足利[ 栃木県 ]
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足利氏の源流は、室町幕府を開いた初代征夷大将軍足利尊氏から8代さかのぼる。
源氏の末裔にして名門武家である足利一族は、鎌倉時代から結束を固め武家社会での地位を盤石なものとする。
現在も足利氏発祥の地に数多く残る一族ゆかりの寺社や史跡をめぐり、源流をたどる。
寺と城の顔をもつ氏寺で時代を彩った足利一族の栄華をしのぶ
足利氏の源流は、源氏にある。八幡太郎の通称で知られる源義家の孫、義康が足利姓を名乗り、下野国にある足利の地を治めた。義家は鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝の祖先でもある。
由緒正しい氏族の足利氏は、鎌倉幕府の中で重用された。2代目の足利義兼は、頼朝の妻で"尼将軍"の名をのこした北条政子の妹、時子を妻とし、頼朝と義兄弟になる。そこから足利氏の地位はさらに盤石になった。京都に室町幕府を開いた初代征夷大将軍、足利尊氏は8代目に当たる。
足利一族の氏寺である鑁阿寺は、鎌倉時代に義康が邸宅を構えた場所だ。境内全体が足利氏宅跡として国指定史跡となる。約4万m2もの広大な敷地面積からも、当時の足利氏の力が絶大だったとうかがえる。鑁阿寺は1196年、義兼が邸宅内に建てた持仏堂が始まりだ。足利氏の守り本尊である大日如来をまつる。"鑁阿"は晩年に出家した義兼の法名にちなむ。
元は武家の邸宅だったため、周囲は土塁と塀に囲まれる。中世武士の館の面影が残り、寺院としては珍しく日本100名城の一つとしても知られる。
本堂は義兼の死後、息子の足利義氏が建立し1287年に落雷により焼失した。現在の本堂は尊氏の父、足利貞氏が1299年に再建したものだ。当時の最新建築様式であった禅宗様建築をいち早く取り入れている。鎌倉時代後期の特徴を示す禅宗様建築の現存例は全国的に少ない。本堂は2013年に国宝に指定された。
境内にある一切経堂は、国の重要文化財だ。義兼の創建と伝えられる。現在の建物は1407年に足利満兼が再建し、江戸時代に改修を重ねた。
中には足利歴代将軍15体の坐像がまつられる。江戸時代の大仏師、朝運とその弟子の作とされている。江戸時代の改修時に八角形の回転式経棚も設置され、一切経を2000巻以上所有する。一切経堂の内部は通常非公開だが、文化財公開日等に拝観できる。
太鼓橋がかかる楼門は、県指定の重要文化財だ。鑁阿寺の正式な山門である。1564年に室町幕府13代将軍足利義輝が再建した。門の両側には仁王像が立ち、屋根には足利家の家紋"丸に二つ引"が施される。
境内には他にも、国の重要文化財である鐘楼、県指定文化財の多宝塔や御霊屋、市指定文化財の不動堂など、数多くの文化財が現存する。下野国における足利氏の影響力は数百年の歴史を超えて今に伝わっている。
日本最古の学校で、戦乱の世にも自主的に学び続けた先人たちを想う
日本で最も古い学校と伝わる足利学校は、鑁阿寺から3分ほど歩いた場所にある。義兼が建てたとの説もあり、足利氏ゆかりの場所だ。室町時代中期、関東管領の上杉憲実が再整備した。
孔子の教えである儒学5つの経典のうち、4経の貴重な書籍が寄進され、国宝に指定されている。入り口から続く3つの門、入徳門、学校門、杏壇門をくぐった先には孔子廟があり、日本最古の孔子坐像がまつられる。頭巾をかぶり儒服をまとった行教像だ。座る孔子像は珍しい。
全国から集まった学生の大半は僧侶だったという。儒学を中心に学び、易学(占い)の習得にも励んだ。自主学習のため在学期間の規定はなく、1日の学生もいれば、10年以上学び続けた者もいた。
杏壇門の前には字降松というマツがある。読めない字や理解できない言葉を紙に書いて結んでおくと、校長職に当たる庠主が読み方や解説を記したという。
敷地内には北と南に2つの日本庭園がある。いずれも築山泉水式庭園だ。方丈と呼ばれる建物から、南庭園を眺めてみる。美しい池、巨大な立石とアカマツが、学び舎にふさわしい凛とした景観をつくり出す。
戦乱の世にも学生を受け入れ続け、学徒三千といわれるほど隆盛を極めた。兵学を併せて学び、軍師になる者も多かったという。この頃、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、足利学校を「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に向けて紹介した。教育機関としての役割は1872年に終えたが、建物を含む足利学校跡は1921年に国指定史跡となる。保存整備が行われ、2015年には近世日本の教育遺産群の一つとして日本遺産に認定された。
鑁阿寺から車で5分ほど行くと法玄寺がある。義兼の正室、北条時子を弔うために建立されたと伝わる。時子は密通を疑われて自害した。墓の場所は長らく不明だったが、1931年、無縁祭壇の工事中に五輪の塔が見つかり、時子の墓と認定された。現在も無縁祭壇の横に安置され、市の重要文化財となっている。
法玄寺から車で15分ほど山間部に足を延ばすと、樺崎寺跡にある樺崎八幡宮にたどり着く。樺崎寺は鑁阿寺の奥の院として義兼が創建した。義兼はここで念仏を唱えて晩年を過ごし、最期は本殿床下に生入定したという。息子の義氏が父の霊と八幡神を合祀したのが、樺崎八幡宮の始まりだ。
明治の廃仏毀釈により樺崎寺は廃寺となったが、樺崎八幡宮を含む遺跡は2001年に国指定史跡となる。発掘調査と保存整備は現在も進行中だ。足利氏の栄華は、一族が結束を固めた鎌倉時代から800年以上を経た今でも、足利の地の至る所に色濃く残る。
ちょっと寄り道
日本在来種のそばを
江戸の通好み"天ぬき"で食す
鑁阿寺参道にあるそば店。そば畑を所有し栽培から手がけるため、希少な日本在来種のそばを味わえる。江戸のそば通が好んだ"天ぬき"は、天ぷらを浸したつゆで食べるスタイルだ。夏と秋には新そばが楽しめる。
■相田みつをゆかりの店 めん割烹なか川
栃木県足利市通2-2659
https://soba.info/
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