平城宮跡の南方に位置する朱雀門。
    奈良時代、門の前の広場は祝祭が行われる重要な場だった。
    現在の朱雀門は1998年に復原されたもの

    平城宮東端に位置する東院庭園。
    特別名勝に指定されている。発掘・復原された貴重な古代庭園として"庭園の国宝"と称される

    重要文化財である西金堂には、国宝の五重小塔が保管される。
    釘で緊結せず、精巧な木組みだけで実現した堅固な構造に目を見張る

    淀殿の寄進により桃山時代に再興された法華寺の本堂。
    一部に天平や鎌倉時代の古材が転用されている

    偉人の軌跡をめぐる旅

    平城京の立役者を訪ねて
    奈良[ 奈良県 ]

    • 偉人の軌跡をめぐる旅
    • 奈良時代
    • 平城京
    • 日本庭園
    • 寺社仏閣
    • 文化財
    • 仏像
    • 国宝
    更新

    710年、藤原京から遷都が行われた。新しい都は唐の長安を模し大和国につくられた。
    奈良時代、平城京の始まりだ。
    平安京に遷都するまでのわずか84年間に仏教は急速に日本に広まり芸術と文化の花も開いた。
    遷都を力強くけん引し仏教に深く帰依した藤原不比等と天皇家へとつながっていく子孫の足跡をたどる。

    才気あふれる政治家・藤原不比等が奈良時代の文化発展を切り開いた

    平城京は南北に貫く朱雀大路すざくおおじを軸として右京と左京で構成される。南北約4.8km×東西約4.3kmの四角形で、左京の外側に設けられた約2.1km×約1.6kmの外京を加えると、総面積は約2500ヘクタールに及ぶ。皇居約22個分に相当する広大な敷地である。

    巨大事業である平城京遷都を推し進めたのが藤原不比等ふじわらのふひとだ。藤原鎌足の次男として生まれ、下級役人からキャリアをスタートさせた。博識が買われて持統じとう天皇の子、草壁皇子くさかべのみこの教育係に登用され、次第に政治の中枢で頭角を現していく。娘・宮子みやこ文武もんむ天皇の妃になるとさらに強大な権力基盤を築いた。日本初の体系的な法律となる大宝律令たいほうりつりょう編纂へんさんに功績を残し、右大臣にまで上り詰める。遷都を力強くけん引した背景には、孫である首皇子おびとのみこを天皇にする思惑があったと伝わる。

    現在、平城京の中央北端にあった平城宮の敷地は、平城宮跡歴史公園として一般開放されている。重要な儀式を行う大極殿だいごくでん朝堂院ちょうどういん、天皇が暮らす宮殿、役所などの施設があった。平城宮だけでも南北約1km×東西約1.3kmと広大だ。

    敷地内には、正門である朱雀門をはじめ、宮殿である第一次大極殿などの建物も復原されている。資料館をはじめとした学術的な展示スペースも見逃せない。平城宮跡全体の歴史を解説するガイダンス施設の平城宮いざない館、発掘調査や最新の研究成果を展示する平城宮跡資料館など多彩だ。くまなく回るなら1日がかりの散策となる。

    平城宮いざない館では、1/5サイズの第一次大極殿の構造模型を間近に見られる。復原に当たり製作されたもの

    平城宮の東端に、迎賓館の役割を担った東院庭園がある。1967年に庭園の遺跡が発見され、1995年から3年かけて復原された。池泉回遊式ちせんかいゆうしき庭園の特徴が見られ、日本庭園の原型とされる。建物は、基礎や柱の跡と、軒先からの雨落溝あまおちみぞとの関係から上屋うわや構造を推定し復原された。

    平城宮東端に位置する東院庭園。特別名勝に指定されている。発掘・復原された貴重な古代庭園として"庭園の国宝"と称される
    左/聖武天皇陵・光明皇后陵のある佐保山南陵と東陵では、動植物の一切の採取が禁じられている
    右/うっそうとした森に覆われる聖武天皇陵・光明皇后陵。野趣あふれる空間に凛とした雰囲気が漂う

    東大寺にほど近い佐保山さほやま一帯は、不比等の孫である聖武しょうむ天皇(首皇子)とその妃、光明こうみょう皇后の陵墓だ。都が移り、時代が変わっても、華やかな奈良時代を彩った2人はこの手付かずの森に静かに眠る。

    藤原氏の邸宅は皇后宮へと変遷。やがて寺院となり、現代に連綿と続く

    奈良には、国宝の建物や仏像を有する寺院が数多く存在する。日本における律宗りっしゅうの開祖・鑑真がんじんが創建した唐招提寺とうしょうだいじ、藤原氏の氏寺である興福寺、聖武天皇が建立した東大寺など、観光の目玉となる名刹は枚挙にいとまがない。今回の旅では、不比等に深く関係する2つの古刹を訪ねた。

    海龍王寺かいりゅうおうじは平城宮の東に隣接する。いにしえの時代より、不比等の邸宅内で歴史を紡いできた寺院だ。元々は土師寺はじでらと呼ばれ、飛鳥時代に創建された。不比等の邸宅建設後も壊されず、敷地北東隅に残され、隅寺すみでらもしくは隅院すみいんなどと呼ばれた。不比等が没し、邸宅を相続して居住したのが不比等の娘、光明皇后だ。

    遣唐使の玄昉げんぼうが住職になると、聖武天皇により海龍王寺と名付けられた。皇帝家の私寺院となり、昼夜を問わず、聖武天皇と光明皇后のために祈りがささげられたと伝わる。

    通りから少し入った場所に海龍王寺はひっそりとたたずむ。築地塀と中世建築の様式を今に伝える表門が趣深い
    左/海龍王寺の本堂にまつられる毘沙門天立像。平城京の鬼門を護る守護神だ
    右/運慶作と伝わる文殊菩薩立像。全体の調和と微妙な表現を重んじた鎌倉時代の作風が表れている

    光明皇后の住居内に建てられた建造物のうち現存するのは、西金堂にしこんどうと中に安置される五重小塔ごじゅうしょうとうのみである。唯一現存する奈良時代に造られた五重塔ごじゅうのとうだ。高さは4mほどで、天平時代の建築技術を現代に伝える。

    重要文化財である西金堂には、国宝の五重小塔が保管される。釘で緊結せず、精巧な木組みだけで実現した堅固な構造に目を見張る
    左/鎌倉時代に檜の寄木造で造立された十一面観音菩薩立像。柔和な表情がわずかに見える
    右/1665年ごろに再建されたとされる海龍王寺の本堂。中央の戸帳の奥に十一面観音菩薩立像をまつる

    海龍王寺の本尊である十一面観音菩薩立像じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞうは、鎌倉時代に慶派の仏師によって造立された。慈愛に満ちた笑みを、戸帳越しに拝顔できる(例年3回の特別開帳期間あり)。

    法華寺ほっけじの門をくぐった。所在地は海龍王寺同様に不比等の邸宅跡であり、不比等没後は光明皇后宮となった地だ。光明皇后の発願により、宮寺として創建された。

    淀殿の寄進により桃山時代に再興された法華寺の本堂。一部に天平や鎌倉時代の古材が転用されている

    東大寺が全国に置かれた国分寺を総括する総国分寺であるのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置付けられる。女人成仏の根本道場としての役割を担った。

    光明皇后は、尼僧の仏学研鑽けんさんを後押しし、疫病の流行や政争の動乱が絶えない中、国家の平安を願って精力的に活動した。法華寺の敷地内には、皇后が千人の垢を自ら流したと伝わる蒸し風呂"から風呂"がある。当初の建物は室町時代の兵火や地震によって失われたが、豊臣秀吉の側室、淀殿よどどのが多くを再建した。

    光明皇后の発願により庶民のために造られた蒸し風呂。"から風呂"と呼ばれる。当時は画期的な福祉施設だった
    左/法華寺の赤門を入ってすぐ、桃山時代に復興された鐘楼がそびえる。大きく反った軒が特徴的だ
    右/法華寺の境内にある国史跡名勝庭園。通常は非公開だが特別公開の時期がある

    本尊の十一面観音菩薩立像じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう一木造いちぼくづくりの国宝だ。光明皇后が蓮池を渡る姿を模していると伝わる。通常は非公開だが、春と秋に特別開扉される。

    境内の西にある国史跡名勝庭園は、江戸初期に京都仙洞御所せんとうごしょから石や庭木を移して作庭された回遊式庭園だ。春にはカキツバタの名所としても知られ、争いのない理想郷を想起させる。世の安寧への切望は、静謐せいひつな寺の中で脈々と受け継がれている。

    ちょっと寄り道

    心休まる春日大社名物「万葉粥」

    春日大社の境内にたたずむ茶屋。名物「万葉粥」は出汁を使って炊くのが特徴。北海道産昆布の出汁と奈良県産白味噌でまろやかに仕上げる。粥の具材は基本的に月替わり。「万葉粥」に柿の葉寿司が付く「大和名物膳」が人気だ。

    ■春日荷茶屋(かすがにないぢゃや)
    奈良県奈良市春日野町160
    https://www.kasugataisha.or.jp/ninaijyaya/

    大和名物膳 1,700円(税込み)

    この記事は、読者登録をすることで続きをご覧いただけます。
    残り5文字 / 全文3471文字

    続きを読むには

    読者登録

    登録済みの方はこちら

    ログイン