武田信玄をまつる武田神社は甲府市街を一望できる高台に建つ。
    元は武田氏3代が国政を執り行った館があった場所だ

    武田神社の拝殿。甲斐を守護した信玄をまつる甲府随一の神社で、勝負に勝つご利益で知られる

    信玄堤を望む。晴れた日には富士山も見える。
    大規模治水工事は、信玄が21歳で国主になった翌年の1542年から始まったと伝わる

    明王殿の武田不動尊像。信玄は生前、仏師に姿を写させた。
    自身の毛髪を焼いて顔料に混ぜ、信玄自らが像の胸部に塗り込めたという

    偉人の軌跡をめぐる旅

    武田信玄が慈しんだ地
    甲府[ 山梨県 ]

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    甲斐の虎と呼ばれた戦国時代の名将武田信玄は1521年に甲斐の国で生まれ志半ばにして53歳で生涯を終えた。
    21歳で甲斐の国主となってからの30年余り知力を尽くして乱世に勝利し続けただけでなく領国の経営にも存分に心血を注いだ。
    信玄が生きた証と業績は今も数多く甲府に残る

    武田氏3代が国政を執り行った館跡に建つ神社を詣でる

    武田信玄をまつる武田神社は、甲府駅から車で10分弱ほどの距離の緩やかな長い坂道を上った場所にある。1919年に創建された。信玄の父である信虎、信玄、信玄の跡を継いだ四男の勝頼が、60年余り国政を執り行った躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた(武田氏館)の跡地だ。1938年に国の史跡に指定された。境内には当時のほり、土塁、古井戸が残り、信玄たち武田一族の生活の場であると共に、政務を執り行った館の名残を感じさせる。

    武田神社の拝殿。甲斐を守護した信玄をまつる甲府随一の神社で、勝負に勝つご利益で知られる

    境内には見どころが多い。"姫の井戸"は武田家の生活の中心となった場所だ。信玄の娘が誕生した際、産湯として使われたのが名の由来とされる。延命長寿・万病退散のご利益があるという。

    全国でも珍しい"三葉の松"は、一般的な松と異なり、3本の葉を持つ。信玄が生前に信仰した高野山の松の種が、信玄が神社にまつられた際に飛来して育ったと伝わる。黄金色になって落葉することから、武田神社の金運・招福のお守りにもなっている。

    左/一般的な松の葉は2本だが、武田神社の境内には三つ葉の松がある。落ち葉を探すのも一興だ
    右/黄金色の三つ葉の松を収めたお守り。持てば金運が上がるとされる

    拝殿の左には、国歌「君が代」の歌詞に登場する"さざれ石"がある。武田神社の御鎮座百年を記念して奉納された。ユニークな形から"亀石"と命名されている。

    境内に据えられたさざれ石。重さは4トンほどあり、貴重な巨石だ
    左/姫の井戸からは澄んだ水が湧き出る。館で茶をたてる際、この水を使ったと伝わる
    右/緑に囲まれた甲陽武能殿では、能楽や神楽が奉納される

    古来、武芸をたしなむ者は舞にも親しみ、舞の拍子を武芸に取り入れた。境内に造られた能舞台"甲陽武能殿こうようぶのうでん"の甲陽は、武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』から引用された。甲斐の国の輝くさまを表す。

    能舞台の裏手には樹木が生い茂る。武田神社の創建時に県内各地から奉献された。自然あふれる森林は、季節ごとに彩りを見せる。

    信玄が20年かけて築いた大規模治水。現代も、人々を水害から守る

    信玄は、領地と領民を守るため、治水工事に力を注いだ。甲府盆地を流れる笛吹川ふえふきがわ釜無川かまなしがわ御勅使川みだいがわは、大雨が降ると暴れ川となって荒れ狂った。信玄は、1542年から20年ほどの歳月をかけ、氾濫を防ぐ大規模治水システムを構築した。信玄が行った治水工法は"甲州流河除法こうしゅうりゅうかわよけほう"と呼ばれ、日本の河川工学の祖となる。

    甲府盆地の北西、甲斐市の釜無川にある信玄堤しんげんづつみは、治水システムにおいて、川の流れを最終的に受け止める役割を担う。構築から500年近くを経た現在も、治水機能を果たし、人々を守る。修繕は繰り返し行われたが、基本構想は信玄が行った治水工法を、現在も受け継ぐ。信玄堤を見渡すと、三角すいの不思議な造形物が目に入る。川の流れを弱め、堤防が受けるダメージを和らげるものだ。三角の先端が牛の角に見えることから、"聖牛せいぎゅう"と呼ばれる。聖の字が付けられた由来は定かではないが、"スーパー"や"ウルトラ"の意を持つと伝わる。

    左/河原に設置された聖牛。今も洪水から人々の生活を守る
    右/信玄堤公園に展示される聖牛。木材を三角に組み立て、石を詰めた蛇籠を重しにする仕組みだ

    信玄堤沿いの信玄堤公園には、木と石とで組み上げた聖牛が展示され、構造が分かる。公園には大木が連なる。信玄堤を強固にするべく、江戸時代に植えたケヤキやエノキだ。市民の憩いの場である緑豊かな公園にも、領地を守護する信玄の意志が継承される。

    左/信玄堤を望む。晴れた日には富士山も見える。大規模治水工事は、信玄が21歳で国主になった翌年の1542年から始まったと伝わる
    右/信玄堤公園には江戸時代に植えられた大木が残る。秋には紅葉を楽しめる
    左/恵林寺の四脚門は赤門とも呼ばれる。山号である乾徳山の額を掲げる
    右/南の入り口に建つ総門。黒門の通称をもつ

    1573年、53歳の生涯を終えた信玄は、向こう3年は死を秘するよう遺言したという。3年後に葬礼を行い埋葬した場所が、甲府盆地の北東、甲州市にある恵林寺えりんじだ。南の入口に建つ総門をくぐり参道を進むと四脚門しきゃくもんがある。国の重要文化財であり、徳川家康の再建と伝わる。

    恵林寺は1330年に夢窓疎石むそうそせきが開いた。信玄が菩提寺と定めた臨済宗りんざいしゅうの古刹だ。寺には、ことわざ「心頭滅却しんとうめっきゃくすれば火もまた涼し」誕生の舞台となった場所がある。県の指定文化財でもある三門だ。武田家の滅亡後も織田信長に従わなかった恵林寺は、三門で織田勢による火攻めに遭う。ことわざは、寺の主である快川国師かいせんこくし今際いまわきわに発した言葉と伝わる。

    左/威厳のあるたたずまいを見せる三門。禅宗寺院の山門の逸品と評価される
    右/橋脚に「滅却心頭火自涼=心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の言葉が掲げられる

    信玄は本堂の奥の森閑とした一角に眠る。墓所は毎月12日のみ公開される。本堂の明王殿みょうおうでんには、県の指定文化財である武田不動尊像が安置される。信玄の等身大の姿を写したと伝わる。

    信玄が眠る墓所。70基ほどある武田家の家臣の墓も、信玄を守るように後ろに並ぶ

    明王殿の手前にあるうぐいす廊下も興味深い。うぐいす張りの床板を歩くと、きしみ音が響く。外部侵入者の探知に設けられ、ゆっくり静かに歩いても音が鳴る。

    左/明王殿の武田不動尊像。信玄は生前、仏師に姿を写させた。自身の毛髪を焼いて顔料に混ぜ、信玄自らが像の胸部に塗り込めたという
    右/うぐいす廊下は、静かに歩いても音が鳴る。外部侵入者の探知に設けられた
    夢窓疎石が大自然の姿を再現した庭園。四季折々の表情を見せる

    本堂の裏には、国の名勝指定を受けた庭園がある。笛吹川の清水が滝となって心字池しんじいけに注ぐ。京都・嵯峨野の天龍寺てんりゅうじや、嵐山の西芳寺さいほうじ苔寺こけでら)の庭園と共に、夢窓疎石が築いた代表的な庭園だ。

    生涯をかけて甲府の地にとどまり、領民を守った信玄は、今も甲府の英雄とされ、地元の人々に愛される。

    ちょっと寄り道

    地産地消で
    山梨の味を堪能できるイタリアン

    山梨・小淵沢のオーガニック野菜をはじめ、県産の旬野菜が味わえるイタリアン。信玄鶏や甲州ワインビーフなど、地元のこだわり食材を最もおいしく食せる調理法で提供する。山梨県産ワインとともに楽しむのも一興だ。

    ■山梨レストラン メリメロ
    山梨県甲府市丸の内1-1-25
    https://meli-melo2013.com/

    信玄鶏グリル 2,400円(税込み/平日ランチタイム)

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