萩城下の菊屋横町。豪商と武家の屋敷が今も残る。
    江戸時代のなまこ壁や白壁が続く美しい横町として、日本の道100選に数えられる

    笠山山頂展望台から萩市を望む。
    浜崎港は天然の良港として江戸時代から交易が盛んだった

    藩校明倫館の跡地に建築された萩・明倫学舎。
    国の登録有形文化財に登録された本館を含む旧明倫小学校の木造校舎群が改修整備された。
    観光拠点として、幕末関連のミュージアムや世界遺産ビジターセンター、レストランも擁する

    境内の中央にたたずむ松下村塾。幕末当時の建物が現存する

    偉人の軌跡をめぐる旅

    長州の維新志士を訪ねて
    [ 山口県 ]

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    長州藩、とりわけ現在の山口県萩市は幕末の時代に多くの傑出した人材を輩出した。
    五箇条の御誓文を作成し国家の近代化に努めた木戸孝允近代憲法を公布し初代内閣総理大臣となった伊藤博文軍制の確立を果たした山縣有朋らは、萩の出身である。
    彼らと同年代の長州藩士、高杉晋作と久坂玄瑞はいち早く才能を開花させ、20代で散った志士だ。
    明治維新への潮流を生み出した晋作と玄瑞を想い萩を訪ねた。

    激動の時代を生きて散った幕末の傑物たちの故郷を訪ねる

    倒幕派の中心人物として"幕末の風雲児"と語り継がれるのが高杉晋作たかすぎしんさくだ。1839年、晋作は長州藩士の長男として萩城下の菊屋横町に生まれた。豪商である菊屋家や武家屋敷が並ぶ横町は、今なお美しいなまこ壁や白壁が連なり、当時の面影を残す。日本の道100選にも数えられている。

    高杉晋作の誕生地は横町の中程にある。屋敷の南側が公開され、晋作が産湯うぶゆを使ったとされる井戸や貴重な写真資料を見学できる。歌碑に刻まれる一首「西へ行く人を慕いて東行く、心の底ぞ神や知るらん」は、晋作が倒幕への思いを詠んだとされる。

    晋作は藩士子弟の教育を目的に設立された藩校、明倫館めいりんかんにて学問を学び、武芸を磨いた。さらに松下村塾しょうかそんじゅくにも入門し、吉田松陰よしだしょういんに師事する。

    松陰は弱冠19歳にして兵学の師範となった早熟な兵学者であり教育者だ。やがて尊王攘夷そんのうじょうい論者として広く知られる。尊王攘夷とは天皇を尊び、外国勢力を討ち払おうとする思想である。松陰は外国勢力を排除すれば良いという小攘夷でなく、列強に対抗できる国力を蓄えようとする大攘夷に立脚した。開国と、西洋諸国からの知識や技術の導入を重視したと伝わる。

    高杉晋作誕生地は、江戸時代の情緒が漂う横町にある

    北長門きたながと海岸国定公園の中央に位置する笠山かさやま山頂へは車でアクセスできる。展望台からは、点々と浮かぶ萩六島はぎろくとうと、入江に広がる萩市街の絶景を楽しめる。萩の浜崎港は、大阪と北海道を結んだ経済動脈である北前船きたまえぶねの寄港地だった。大陸との交易も盛んに行われた萩の地理的環境は、松陰と門下生の思想形成に影響したと考えられる。

    笠山山頂展望台から萩市を望む。浜崎港は天然の良港として江戸時代から交易が盛んだった
    左/城下町近くの中央公園に凛々しく立つ久坂玄瑞進撃像。勇猛果敢だった玄瑞の人物像を表現している
    右/手厚く保存される久坂玄瑞誕生地。尊王攘夷派の公爵、三条実美が玄瑞を詠んだ歌碑が立つ

    久坂玄瑞くさかげんずいは1840年、高杉家から数百m離れた藩医の家に生まれた。現在、誕生地には石碑が立つ。14歳で母を、15歳で兄と父を亡くし天涯孤独となる。17歳で藩の医学所の寄宿生となる一方、松下村塾に入門する。明倫館では松陰の兵学の講義も受けた。松陰は玄瑞を「防長ぼうちょう年少第一流の才気ある男」と絶賛した。

    松陰は2人を"松下村塾の双璧"として切磋琢磨させ、若きリーダーへと育て上げた。松陰は安政あんせい大獄たいごくにより刑死する。玄瑞は松陰の遺志を引き継ぎ、尊王攘夷急進派の政治家、軍人として頭角を現す。中央公園に立つ久坂玄瑞進撃像は、彼の勇猛さを現代に伝える。

    藩校と私塾での充実した学びは志士たちの類いまれな才能を開花させた

    藩校として全国屈指の規模を誇った明倫館跡地には、1935年に小学校が建てられ、2014年まで授業が行われた。4棟に及ぶ校舎群は日本最大級の木造校舎だ。本館は国の登録有形文化財に登録され、2017年には萩・明倫学舎として生まれ変わった。萩の観光情報を集約したインフォメーションセンターに加え、明倫館の歴史を学ぶ展示室、江戸時代の科学技術や貴重な歴史資料を展示する幕末ミュージアムを備えた観光拠点だ。とりわけ軍事関連資料は充実しており、晋作や玄瑞が兵力増強を重視した背景を理解できる。

    藩校明倫館の跡地に建築された萩・明倫学舎。国の登録有形文化財に登録された本館を含む旧明倫小学校の木造校舎群が改修整備された。観光拠点として、幕末関連のミュージアムや世界遺産ビジターセンター、レストランも擁する

    萩・明倫学舎の敷地北側にある四角形の池は、日本に唯一現存する藩校の水練池すいれんいけだ。遊泳術や水中騎馬の訓練に使われた。

    敷地内に建つ有備館ゆうびかんは槍術・剣術の道場だ。現在も当時の建物が使われている。北側半分に板張り39畳の剣術場、南側半分に土間54畳の槍術場を有する。晋作や玄瑞をはじめ藩士の練武が行われた他、「他国修業者引請剣槍術場たこくしゅぎょうしゃひきうけけんそうじゅつじょう」をうたって他国の腕自慢たちを迎えた。土佐の坂本龍馬さかもとりょうまも試合を行ったと伝わる。志士たちが鍛錬に明け暮れた場内には、今も凛とした空気が漂う。

    左・中/晋作や玄瑞も剣術や槍術の腕を磨いたとされる道場、有備館。堅牢な構造体の建物は現役だ
    右/遊泳術や水中騎馬の訓練が行われた水練池は、安山岩で造られた日本最古のプールとして知られる

    萩・明倫学舎から北西に1.5kmほど行くと萩博物館がある。菊屋横町からは徒歩約3分の距離だ。萩の歴史と文化の発信拠点として、幕末関連の実物資料の他、萩城下町の資料、萩の生物標本を公開する。とくに高杉家からの寄贈資料は圧巻だ。実際に着用した甲冑など、良好な保存状態の資料を間近に観覧できる。

    左/高杉晋作関連の貴重な資料が数多く展示される萩博物館
    右/萩博物館は当地にあった大規模な武家屋敷の特徴にならって建てられた
    左/吉田松陰をまつる松陰神社
    右/松陰神社の本殿横には松陰門人をまつる松門神社がある。晋作や玄瑞をはじめ、山縣有朋、伊藤博文、木戸孝允など53柱を合祀する

    松陰神社は、吉田松陰を学問の神としてまつる。境内の中央には松下村塾がある。塾の隣りに作られた小さなほこらを起源とし、1907年に創建された。松陰は自身も塾に学び、のちに主宰した。

    明倫館での学びが武士の身分に限定されたのに対し、松下村塾はあらゆる身分の者に門戸を開いた。塾生は90名ほどいたとされる。松陰が指導したわずか3年足らずの間に、幕末から明治にかけて日本をリードした人材を多く輩出した。松陰神社宝物殿至誠館ほうもつでんしせいかんでは、松陰が29年の短い人生をかけて塾生へ伝えた志にふれられる。

    左/松陰の著述や資料の永久保存を目指す松陰神社宝物殿至誠館。松陰直筆の書簡もつぶさに確認できる
    右/当時のまま保存された松下村塾の講義室。多くの逸材が巣立っていった

    晋作は奇兵隊を率いて数々の戦果を上げた。将軍が天皇に政権を返上する大政奉還たいせいほうかんの実現に貢献したが、それを目にすることなく肺結核のため27歳で世を去る。玄瑞は長州藩を尊王攘夷に転向させた。イギリス公使館焼き討ちや下関の外国船砲撃に参加したが、会津勢との戦いである禁門きんもんの変で重傷を負い24歳で自害した。若くして散った"松下村塾の双璧"の強烈な存在感は、今でも萩の随所で感じられる。

    左/松下村塾の一室には、晋作や玄瑞の他、伊藤博文や山縣有朋ら塾生の写真が掲げられる
    右/境内の中央にたたずむ松下村塾。幕末当時の建物が現存する

    ちょっと寄り道

    萩名物の剣先イカを活造りで堪能する

    生けすに泳がせた萩沖の地魚を味わえる日本料理店。人気は肉厚で甘みが深い剣先イカの活造りだ。イカを天ぷらや炭火焼きでも味わえ、小鉢や茶碗蒸しなども付く「イカづくし」は、活イカと地魚料理を一挙両得できる贅沢な御膳だ。

    ■お食事処 萩心海(はぎしんかい)
    山口県萩市土原370-71
    https://hagi-shinkai.com/

    イカづくし 5,478円(税込み)

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