上田城の出入り口だった東虎口櫓門。1994年に古写真を参考に復元された。
    門の先には眞田神社の鳥居と拝殿が続く

    尼ヶ淵から西櫓を望む。崖の高さは約12mもあり、守りの堅さがうかがえる

    六文銭を染めた幕がはためく皇大神社(旧真田氏館跡)。左隣には御北の松がそびえる

    石湯の外観。温泉街にふさわしく堂々とした入母屋造りの建物だ

    偉人の軌跡をめぐる旅

    真田一族の本拠地を訪ねて
    上田[ 長野県 ]

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    戦国の世を知力と戦略で生き抜いた真田昌幸は息子の信之、信繁(のちの幸村)と共に
    簡素ながら守りの堅い上田城を築き徳川との2度にわたる戦いに勝利を収めた。
    乱世を生き、現在の上田の街の原型をつくった真田一族の軌跡をたどる。

    真田一族が、上田城を築き天下に名を轟かせた時代を想う

    真田一族は、上田市北東部の真田地域を本拠地とする地方豪族だった。戦略に長けた名将として知られる真田(まさ)(ゆき)は、上田市の"生みの親"ともいわれる。息子の(のぶ)(ゆき)(のぶ)(しげ)(のちの(ゆき)(むら))と共に上田城を築いた。立地は上田盆地のほぼ中央、()(くま)(がわ)から分流を引いた(あま)()(ふち)を見下ろす崖の上だ。つくられた城下町は、現在の上田市街地の原型となる。

    上田城は堀と()(るい)で囲まれ、()(ぐち)(出入り口)に石垣を使った簡素な造りだった。本丸の土塁には()(もん)()けである(すみ)(おとし)が見られる。北東は鬼門とされ、鬼が出入りする方角として嫌われた。隅欠とは土塁の鬼門、つまり北東の角を削り取ったものだ。北東に向く角を失くせば、鬼門も失くなると考えられた。上田城の特徴の1つとされる。

    真田親子は1585年の第1次上田合戦、1600年の第2次上田合戦で、徳川の大軍を撃退した。以降、真田の名は日本中に轟き、英雄と称えられた。

    関ヶ原の合戦で親子は敵味方に分かれて戦う。敗れた西軍についた昌幸と信繫は紀州へ配流となり、東軍についた信之は(まつ)(しろ)(現長野市内)へ移封となった。城主を失くした上田城では本丸や二の丸が破却された。東側の出入り口に当たる(ひがし)()(ぐち)(やぐら)(もん)の横の石垣には「真田石」と名付けられた巨石がある。信之が父の形見に松代へ持参しようとしたが微動だにしなかった伝承が残る。

    左/東虎口櫓門横の石垣には巨大な石がある。真田石と呼ばれる
    右/本丸の土塁は、鬼門である北東部分の角が削り取られ、滑らかになっている。隅欠(すみおとし)と呼ばれる鬼門除けだ
    左/尼ヶ淵から西櫓を望む。崖の高さは約12mもあり、守りの堅さがうかがえる
    右/眞田神社には、西櫓を守るかのように青年時代の真田幸村像が立つ
    眞田神社では幸村が愛用した兜の巨大オブジェが参拝客を出迎える

    次の城主である(せん)(ごく)(ただ)(まさ)によって上田城は復興されたが、明治維新後にほとんどが取り払われ、西櫓は江戸時代からの姿を伝える唯一の建築となる。民間に払い下げられていた櫓も市民の熱意によって買い戻され、1949年に東虎口櫓門の両脇に移築された。現在の南櫓と北櫓だ。西、南、北の櫓は1959年に長野県宝に指定される。城跡は上田城跡公園として整備され、約1000本の桜や樹齢100年といわれるケヤキ並木が訪れる人を楽しませている。

    東虎口櫓門をくぐった先には眞田神社がある。真田家を筆頭に歴代の上田藩主をまつる。のちに真田幸村と名乗る信繁は知将として人気だ。大坂の陣では豊臣軍の中心となって活躍した。参道では幸村が身に着けたとされる鹿(しか)(つの)(わき)(だて)(しゅ)(ぬり)(かぶと)の巨大オブジェが参拝客を迎えてくれる。

    緑が生い茂る高台には今もなお真田一族が暮らした面影が残る

    眞田神社は元来、江戸中期以降の上田城主、松平家の先祖をまつる神社だった。1953年に歴代城主をまつる神社となり、1963年に眞田神社と改称した。上田城址を守護する神社として、上田城を築いた真田氏、上田城を復興した仙石氏も併せてまつるのが望ましいとの声が上がったのだ。

    真田幸村は知略と武功から"(ひの)(もと)(いち)(つわもの)"と称賛され、現在は知恵の神様としても崇拝される。上田城が徳川軍を2度にわたり撃退した不落城として知られるため、合格や必勝祈願に訪れる参拝客も多い。

    眞田神社の拝殿。不落城の由来から縁起が良い神社として受験生が訪れる
    左/真田井戸。敵に包囲されても、抜け穴から兵糧の運搬や兵士の出入りができたと伝わる
    右/拝殿の参拝時、真田家の家紋である六文銭に手をかざすと鈴の音が鳴る

    境内には大きな井戸がある。「真田井戸」と呼ばれる。井戸には抜け穴があり、城の北方に当たる()(ろう)(さん)(ろく)(とりで)に通じていたという。"落ちない城"の戦略の一端が垣間見られる。

    上田城跡公園から車で約20分の高台に、真田一族が上田城の築城前に暮らした真田氏館跡がある。昌幸の父である(ゆき)(つな)が真田郷支配の居館とした。1558~70年頃の築造と伝わる。周辺には武家屋敷や城下町が形成された。

    居館は当時の形態がほぼ完全な形で保存されている。貴重な史跡として、1967年に長野県史跡に指定された。地元では()()(しき)と呼ばれ親しまれている。敷地は東西150~160m、南北およそ130mのやや台形で、敵の侵入を防ぐため周囲に数十mにわたる土塁をめぐらせた。

    居館の横には松がそびえる。昌幸の兄である(のぶ)(つな)の正室が、亡き夫を偲んで植樹した。()(きた)の松と呼ばれる。上田城が完成すると、真田一族の住まいや城下町は全て上田へ移った。昌幸は、残された居館に伊勢神宮の()()(みたま)をまつり、(こう)(たい)神社とした。真田一族が心地よく暮らした居館を残したかった気持ちが伝わる。

    左/緑に守られた皇大神社の鳥居
    右/徳川家康の家臣、本多家から真田家に贈られたと伝わる御手水石。境内にそのままの姿で残る
    六文銭を染めた幕がはためく皇大神社(旧真田氏館跡)。左隣には御北の松がそびえる
    石湯の浴場。地下にあり、名の通り天然の岩を浴槽にした野趣あふれる造りだ

    上田市街地から車で約30分の場所に、別所温泉がある。標高570mの高地に位置し、400年の歴史を誇る信州最古の温泉地だ。別所温泉の泉質は、弱アルカリ性の単純硫黄温泉で、神経痛や筋肉痛の他、美肌効果も期待できるという。平安時代に書かれた『枕草子』では"美人の湯"と紹介されている。

    石湯の外観。温泉街にふさわしく堂々とした入母屋造りの建物だ
    左/石湯の入り口には池波正太郎の筆で書かれた標石がある
    右/温泉水は飲用可能。街中でも竜を模した飲泉塔から自由に飲める

    共同浴場の外湯である(いし)()は"真田の隠し湯"だったと伝わる。岩の間から豊かに湧き出す温泉だ。池波正太郎の小説『真田太平記』にも登場する。主人公の真田幸村が愛した配下の女忍者、お(こう)と結ばれる重要な舞台だ。石湯の入り口には池波正太郎の筆で書かれた「真田幸村公 隠しの湯」との標石が立っている。

    石湯の斜め向かいにある(たけ)()()殿(てん)では、真田昌幸・幸村親子をモデルにした甲冑が常設されている。鎧や陣羽織を間近に観賞でき、戦国時代の趣が感じられる。

    上田に堅牢な城を築き、城下町をも整えた真田一族は、今もなお上田の地で多くの人を魅了する。

    石湯の斜め向かいにある武屋御殿。真田昌幸と幸村をモデルにした甲冑は常設だ

    ちょっと寄り道

    そばの風味をくるみの甘さが引き立てる

    小諸そば400年の伝統を受け継ぐ手打ちそばレストラン。かみごたえが良く、こしと爽快感のあるそばを味わえる。丹念にすりつぶしたくるみを、そばつゆに加えて食す「くるみそば」が名物。並盛でも十分満足できるボリュームだ。

    ■信州蕎麦の草笛 上田お城前店
    長野県上田市大手2-7-6
    https://kusabue-uedaoshiromaeten.com/

    くるみそば 1,250円

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