偉人の軌跡をめぐる旅

    文献を参考に桃山時代の天守のイメージで1989年に再建された清洲城。
    城内に展示された資料から、信長が生きた時代と清須の歴史を学べる

    清洲城の最上階からは石庭や清須市街を望める

    津島神社の社殿。切妻屋根が凛々しい。中は拝殿、祭文殿、本殿と続く

    天守の中央を装飾する唐破風、最上階の両側にあしらわれた華頭窓が犬山城の優美な外観を演出する

    偉人の軌跡をめぐる旅

    織田信長の若き日の足跡をたどる
    尾張[ 愛知県 ]

    • 偉人の軌跡をめぐる旅
    • 戦国時代
    • 日本の名城
    • 寺社仏閣
    • 文化財
    更新

    室町時代後半から100年以上続いた戦乱の世に日本の天下統一をめぐり活躍した戦国三英傑の1人、織田信長は現在の愛知県に生まれた。
    先陣を切り、若くして武将としての才能を開花させた信長の尾張での軌跡をたどる。

    弱小の領主から尾張統一
    全国平定へ向けてひた走る

    戦となれば劣勢ながらも勇猛果敢に戦い勝利を収める。権力を拡大し型破りな発想で政治手腕も発揮する。()()(のぶ)(なが)は最も躍動した戦国武将の1人だ。常に強く大胆に行動するリーダー像は現代人の心をつかむ。

    信長は1534年、()(わり)(のくに)(現在の愛知県西部)にあった(しょ)(ばた)(じょう)の城主、織田(のぶ)(ひで)の嫡男として生まれた。幼名は(きっ)(ぽう)()という。2歳で()()()城(名古屋城)の城主となり、17歳で家督を継いだ。

    天下取りの出発点となったのは那古野城から北西7kmほどに位置する清洲城だ。現在の清洲城は、1989年に桃山時代の城をイメージして再建された模擬天守である。

    複雑な権力争いの中、信長は主君であり清洲城の城主であった織田(のぶ)(とも)を討つ。21歳で清洲城に入城し、約10年間居城したとされる。五条川のほとりに建つ清洲城の最上階からは、清須市街や超高層ビルが立ち並ぶ名古屋市街が見える。信長が命名したとされる「岐阜」の山並みも遠望できる。若き日の信長も四方を眺め、天下統一の思いを募らせただろう。

    左/清洲城の最上階からは石庭や清須市街を望める
    右/1610年、清洲城は廃城となった。城下の住民や石垣、建物は名古屋城下に移された。清洲古城跡公園には移設前の石垣が復元されている

    信長の運命を変え、日本の歴史を大きく動かした合戦が、清洲城時代に起きた(おけ)(はざ)()の戦いだ。敵の(いま)(がわ)(よし)(もと)は室町幕府を治める足利家の血縁であり、駿(する)()の大名だった。甲斐の(たけ)()(しん)(げん)、相模の(ほう)(じょう)(うじ)(やす)ら強国と同盟関係もある。一方、信長は一国一城の主とはいえ、後ろ盾のない弱小領主だった。今川勢の兵力は2万5000に及んだが、信長勢はわずか4000だったとも伝わる。

    信長は清洲城から出陣し、武将から崇敬を集める(あつ)()神宮で必勝祈願を行った。戦では、今川の兵力を分散するように陽動した。信長は根気強く決定的なチャンスを待った。本陣が手薄になったところを見極め、義元の首だけを狙ったのだ。少数精鋭で一気に攻め、義元を討ち取った。

    信長は大勝のお礼として、熱田神宮に(つい)()(べい)を奉納した。土と石灰を練り固め、瓦を挟んで積み重ねた塀は(のぶ)(なが)(べい)と呼ばれる。清洲城正門には熱田神宮と同じ信長塀が復元されている。

    信長は今川氏の支配から解放された徳川家康と組み、勢力を拡大させていく。()()攻略に向け、本拠を清洲城から()(まき)(やま)(じょう)へと移す。

    左/清洲城内には信長が着用した鎧兜のレプリカをはじめ、信長ゆかりの品が展示されている
    右/清洲城正門の信長塀。信長が桶狭間の戦いに勝利したお礼に熱田神宮へ奉納した塀をモデルに造られた

    信仰厚く、祭りを好んだ信長は
    天下人への階段を駆け上がる

    清洲城から西へ車で約40分の場所に津島神社がある。全国に3000社以上ある津島神社の総本社だ。540年に創建された。除疫・授福の神である牛頭天王を信仰する。かつては()(しま)()()(てん)(のう)(しゃ)と呼ばれた。

    信長は津島神社を氏神として仰ぎ、造営に協力した。神社への崇敬は豊臣家と徳川家へも受け継がれた。(ろう)(もん)は豊臣秀吉から、南門は豊臣(ひで)(より)から、本殿は徳川家康の四男で清洲城主だった(まつ)(だいら)(ただ)(よし)からの寄進だ。

    津島神社の社殿。切妻屋根が凛々しい。中は拝殿、祭文殿、本殿と続く
    拝殿から奥へ祭文殿、本殿と左右対称の建物が連なる

    1591年建立の楼門は、豪壮な(さん)(けん)(いっ)()(いり)()()造りで、国の重要文化財に指定される。社殿には尾張造りの特徴が現れる。拝殿・(さい)(もん)殿(でん)・本殿が左右対称に配置され、縦横に伸びる回廊でつながる。一般参拝では、三間ごとに柱が立つ壮麗な拝殿内部をのぞき見られる。本殿の間には(ばん)(ぺい)が立つ。尾張地方に多く見られる厄除けの塀だ。

    津島神社の近くには(てん)(のう)(がわ)が流れる。かつては流域が異なり、川幅は300mもあったという。天王川にあった()(しま)(みなと)は、尾張と伊勢を結ぶ舟運の要衝だった。貿易によって潤う経済力を背景に、信長の祖父・(のぶ)(さだ)の代から地元民による自治が認められ、津島神社の門前町と共に発展した。

    左/端正な造りの蕃塀。不浄除けの役割を持つ
    右/津島神社の実質的な正門である楼門。豊臣秀吉の寄進とされる。国指定重要文化財だ

    津島神社の大祭として、日本三大川祭りに数えられるのが尾張津島(てん)(のう)(まつり)だ。津島神社と天王川で毎年7月に行われる。宵祭では5艘の(まき)(わら)(ぶね)が屋台に500個以上の提灯を飾り、天王川へ漕ぎ出す。翌朝、巻藁船は提灯から華麗な飾りの(だん)(じり)(ぶね)へと模様替えし天王川を渡る。信長もこの祭りを好んだと記録が残る。天王川公園では、祭りの船の発着場所である(くるま)(こう)()を見られる。

    左/津島の中心部を流れていた天王川は、天王川公園に池として残る
    右/点在する車河戸は、尾張津島天王祭で船の発着所となる
    犬山城は木曽川に屹立する断崖絶壁に建つ

    小牧山城は清洲城から北へ車で約20分に位置する。さらに北へ約20分行くと犬山城がある。信長の叔父・(のぶ)(やす)が1537年に築城した。犬山城は愛知県と岐阜県の境を流れる木曽川を背にして断崖絶壁に建つ。川側の守りが固い"(うしろ)(けん)()の城"として知られる。

    左/丸みを帯びた弓のような構造は唐破風と呼ばれる。城内では裏側から細部の造作を見学できる
    右/上段の間は、主君が家臣に対面する場所だった。床が一段高い

    天守は現存する最古であり国宝だ。丸みを帯びた弓なりの屋根が特徴の(から)()()と、釣り鐘形の()(とう)(まど)を持つ外観は、気高く優美と評価される。

    城内は無駄を省いた簡素な造りだ。1階の"上段の間"は主君が家臣に対面する場所だった。他より一段高い位置に造られ、兵が移動する廊下"()(しゃ)(ばし)り"が取り囲む。武具を装着した武士が通行しやすい造りだ。

    左/屋根には桃瓦が8カ所ある。桃は縁起が良い果物とされる
    右/天守の中央を装飾する唐破風、最上階の両側にあしらわれた華頭窓が犬山城の優美な外観を演出する

    1565年、信長は犬山城を攻め落とした。家臣で乳兄弟の(いけ)()(つね)(おき)を入城させ尾張統一を果たす。まだ31歳だった。1567年には美濃を平定し、「幕府を再興する」を意味する(てん)()()()の朱印を使い始める。天下泰平の世を夢見た信長は、家臣の(あけ)()(みつ)(ひで)()(ほん)により倒れた。48年の激動の人生だった。

    ちょっと寄り道

    伝統の田楽と菜飯の素朴な滋味

    明治期から140年続く田楽専門店。数種類の八丁味噌をブレンドした秘伝の味噌ダレで、豆腐を香ばしく焼き上げる。豆腐は富山・新潟のエンレイや岐阜のフクユタカなど厳選された大豆で作られる。季節の葉の塩漬けを刻み入れた菜飯との相性が抜群だ。

    ■松野屋 犬山本店
    愛知県犬山市犬山北首塚28-1
    https://dengaku-matsunoya.com/

    でんがく定食 1,400円

    この記事は、読者登録をすることで続きをご覧いただけます。
    残り5文字 / 全文3524文字

    続きを読むには

    読者登録

    登録済みの方はこちら

    ログイン