偉人の軌跡をめぐる旅

    三溪園の臨春閣。棟を奥へずらしながら連結させた外観は、水鏡への反射も緻密に計算して設計されている

    三溪が自宅として建てた鶴翔閣。客人を迎えて音楽鑑賞した楽室棟は、西洋建築を意識した高い天井が開放的。
    一般非公開だが結婚式等の利用可能。盆と正月に特別公開あり

    横浜港は19世紀終わりに大さん橋や赤レンガ倉庫が整備され、近代的な港湾として発展した

    ホテルニューグランド本館の大階段。目の前の時計周りには、京都西陣織が彩りを放つ

    偉人の軌跡をめぐる旅

    横浜の発展に尽くした実業家を訪ねて
    横浜[ 神奈川県 ]

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    人口約377万人を有する大都市、横浜の発展には実業家たちの存在があった。
    中でも原三溪は、大いに事業を手掛ける傍ら、名勝・三溪園を造り、文人、茶人としても大きな足跡を残す。
    経済・文化の両面で、横浜の発展に献身した三溪と共に尽力し、交流した実業家や芸術家に迫る。

    日本の近代産業をけん引。
    芸術振興の支援も惜しまぬ姿勢

    米国軍人ペリーが1853年に来航した翌年、日米和親条約が締結され、日本は200余年の鎖国を解いた。条約を結んだ地には現在、横浜開港資料館が建つ。同館では豊富な資料から、開港~文明開化期を中心とする横浜の歴史をたどれる。

    横浜は生糸(きいと)貿易で急速に発展した。生糸売込商(うりこみしょう)の原商店を興し成功したのが原善三郎(ぜんざぶろう)だ。1891年、原家では岐阜出身の教師だった原富太郎(とみたろう)が入り婿となった。のちに三溪(さんけい)と名乗る。1899年に31歳で跡を継いだ三溪は、原商店を原合名会社へ改組し、近代的な経営改革を断行した。長年の功労者を手厚く円満退社させる一方、近代的学問を修めた人材を要職に抜擢した。海外商社への生糸売込だけでなく直輸出を手掛け、同社を三井や三菱にも並ぶ生糸輸出商社に成長させた。製糸業にも進出し、安定経営を図って不動産業と林業にも注力する。

    左/横浜開港資料館。旧館は1931年から1972年まで英国総領事館だった。横浜市指定文化財である
    右/展示室ではペリー来航から始まる開港の歴史が解説される
    左/京都から移築された旧燈明寺三重塔は、園内のどこからでも見える
    右/鶴翔閣の書斎棟。かつて三溪が寝室と書斎として使っていた

    1902年、三溪は義父から引き継いだ本牧(ほんもく)の土地に鶴翔閣と呼ばれる本宅を建てた。庭師を関西に派遣して学ばせ、本格的な造園に取り組んだ。1906年には市民に外苑を無料開放した。外苑は17万5000m2の敷地の多くを占める。園内には京都の旧燈明寺三重塔(きゅうとうみょうじさんじゅうのとう)をはじめ、各地の価値ある古建築が移築され、現在も保存されている。

    三溪は古美術と日本近代美術の蒐集家(しゅうしゅうか)でもあった。若手芸術家に研究用の奨励金を出し、制作の場を与え、作品を買い上げて支援した。鶴翔閣に滞在して描いた画家には、横山大観(よこやまたいかん)下村観山(しもむらかんざん)前田青邨(まえだせいそん)ら大成した者も多い。三溪はパトロンとしても優れた選定眼の持ち主だった。

    三溪はさらに事業を拡大し、銀行の頭取や、多くの大企業の取締役を務めた。横浜における実業家としての地位を確固たるものとした。

    左/三溪がデザインした文様は、鶴翔閣を含む建物の随所に意匠として施される
    右/三溪が自宅として建てた鶴翔閣。客人を迎えて音楽鑑賞した楽室棟は、西洋建築を意識した高い天井が開放的。一般非公開だが結婚式等の利用可能。盆と正月に特別公開あり

    関東大震災により横浜は壊滅。
    都市機能と港の復興に尽力する

    三溪は紀州徳川(きしゅうとくがわ)家ゆかりの古建築を三溪園に移築し、息子の披露宴会場としても用いた。臨春閣(りんしゅんかく)と呼ばれる。隠居所としての建物である白雲邸(はくうんてい)も新築し、園の隅々にこだわりを貫いた。1905年に移設された旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)は、豊臣秀吉が母の長寿を祈願して建てたお堂だ。1922年には二条城内にあったとされる三笠閣を移築し、聴秋閣(ちょうしゅうかく)と名付けた。三溪園の完成記念として開かれた大師会茶会(だいしかいちゃかい)には、多くの実業家が訪れた。当時の三溪は、三井物産社長の益田鈍翁(ますだどんのう)、電力王と呼ばれた松永耳庵(まつながじあん)と共に、近代を代表する茶人となっていた。

    大師会茶会での三溪。三溪園の全園完成を祝した
    (写真提供:公益財団法人三溪園保勝会)
    旧天瑞寺寿塔覆堂。豊臣秀吉が母の長寿を祈願して建てたものだ
    左/三溪が描いた「蓮華図」。蓮の花をことのほか愛し、よく描いたという(写真提供:公益財団法人三溪園保勝会)
    右/元々は二条城内に建てられたといわれる三笠閣を移築し、聴秋閣と改称した

    1923年9月、関東大震災が発生する。横浜では3万5000棟が倒壊・焼失し、2万6000人の死者・行方不明者が出た。新聞は横浜全滅と報じた。発生時、三溪は、後に世界的に有名になる古美術店、サムライ商会の野村洋三(のむらようぞう)と箱根に滞在していた。徒歩で4日かけ三溪園に戻ったという。園では、妻・屋寿(やす)が使用人に指示し、被災者に寝床を提供して炊き出しを行っていた。

    三溪は横浜の復興に奔走し、多大に尽力した。生糸貿易業者からの要請に応じ、横浜貿易復興会を結成して会長に就任する。膨大な焼失生糸の損害負担問題や横浜港の復旧・復興に積極的に取り組んだ。

    仮市庁舎で開かれた協議会には、県市当局や議員、各界代表の200人以上が集まり、横浜市復興会が結成された。会長に指名されたのは三溪だった。創立総会で「横浜の外形は焼き尽くされたが、横浜の本体は厳然として存在している。それは市民の精神、市民の元気である」と語り、人々を勇気づけたという。

    震災以降、三溪は美術品の蒐集をやめた。自身で専ら筆をとって描き、漢詩をたしなんで芸術への欲求を満たした。「蓮華(れんげ)図」をはじめとする三溪自筆の絵画や書は、園内にある三溪記念館で鑑賞できる。実業家、パトロン、茶人に加え、文人としての三溪の一面に触れられる。

    横浜港は19世紀終わりに大さん橋や赤レンガ倉庫が整備され、近代的な港湾として発展した

    横浜では、震災で外国人向けホテルが焼失した。横浜の有力者たちは、ライバルである神戸港に実業が流れてしまえば復興はないと考えた。そこで復興のシンボルとして、外国人専用ホテルを急ピッチで建設した。プロジェクトをリードしたのもやはり三溪だった。初代社長には、震災のときに箱根から共に帰浜した野村洋三が就任した。

    左/ホテルニューグランド本館の大階段。目の前の時計周りには、京都西陣織が彩りを放つ
    右/きめ細かな京都西陣織の「天女奏楽之図」

    1927年、ホテルニューグランドは誕生した。和洋折衷の大階段や壮麗なロビーが特徴的だ。チャールズ・チャップリンやベーブ・ルースをはじめ、多くのVIPに愛された。ダグラス・マッカーサー元帥が進駐軍の滞留地を横浜にしたのも、同ホテルに宿泊するためだったと伝わる。マッカーサーが執務に当たった机と椅子は、現在もマッカーサーズスイートと呼ばれる部屋で使用されている。

    左/マッカーサーズスイート。元帥が宿泊時に使った机と椅子(右奥)も残る
    中/同ホテルは、プリン・ア・ラ・モード発祥の地でもある
    右/本館2階のザ・ロビーでは、天井から吊るされた伽藍の灯籠が東洋らしい優美さを放つ

    プリン・ア・ラ・モードは同ホテルが発祥だ。第2次世界大戦後、同ホテルは将校宿舎として使われた。滞在していた米国将校夫人を喜ばせるデザートとして考案されたという。昔ながらのプリンとアイスクリームの製法を今でも守る。

    三溪を筆頭に、横浜の発展と復興に尽力した実業家たちの思いは、今でも横浜の随所に脈々と残る。

    山下公園通りに建つ本館は、欧州風の落ち着いた佇まいだ

    ちょっと寄り道

    中華の技法を駆使した伝統の肉料理

    1924年に横浜中華街にて創業した広東料理専門店。炭火の自家窯で焼き上げるブタやアヒルの肉料理が評判だ。人気は肉料理の盛り合わせ。皮付き焼豚、蒸し鶏、煮込んだ豚タンやハチノス、腸詰めなどを楽しめる。グループで味わいたい。

    ■金陵
    横浜市中区山下町131-5
    https://sites.google.com/view/kinryo/

    肉の盛り合わせ 4,300円

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