横浜の発展に尽くした実業家を訪ねて
横浜[ 神奈川県 ]
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人口約377万人を有する大都市、横浜の発展には実業家たちの存在があった。
中でも原三溪は、大いに事業を手掛ける傍ら、名勝・三溪園を造り、文人、茶人としても大きな足跡を残す。
経済・文化の両面で、横浜の発展に献身した三溪と共に尽力し、交流した実業家や芸術家に迫る。
日本の近代産業をけん引。
芸術振興の支援も惜しまぬ姿勢
米国軍人ペリーが1853年に来航した翌年、日米和親条約が締結され、日本は200余年の鎖国を解いた。条約を結んだ地には現在、横浜開港資料館が建つ。同館では豊富な資料から、開港~文明開化期を中心とする横浜の歴史をたどれる。
横浜は

右/展示室ではペリー来航から始まる開港の歴史が解説される

右/鶴翔閣の書斎棟。かつて三溪が寝室と書斎として使っていた
1902年、三溪は義父から引き継いだ
三溪は古美術と日本近代美術の
三溪はさらに事業を拡大し、銀行の頭取や、多くの大企業の取締役を務めた。横浜における実業家としての地位を確固たるものとした。

右/三溪が自宅として建てた鶴翔閣。客人を迎えて音楽鑑賞した楽室棟は、西洋建築を意識した高い天井が開放的。一般非公開だが結婚式等の利用可能。盆と正月に特別公開あり
関東大震災により横浜は壊滅。
都市機能と港の復興に尽力する
三溪は

(写真提供:公益財団法人三溪園保勝会)


右/元々は二条城内に建てられたといわれる三笠閣を移築し、聴秋閣と改称した
1923年9月、関東大震災が発生する。横浜では3万5000棟が倒壊・焼失し、2万6000人の死者・行方不明者が出た。新聞は横浜全滅と報じた。発生時、三溪は、後に世界的に有名になる古美術店、サムライ商会の
三溪は横浜の復興に奔走し、多大に尽力した。生糸貿易業者からの要請に応じ、横浜貿易復興会を結成して会長に就任する。膨大な焼失生糸の損害負担問題や横浜港の復旧・復興に積極的に取り組んだ。
仮市庁舎で開かれた協議会には、県市当局や議員、各界代表の200人以上が集まり、横浜市復興会が結成された。会長に指名されたのは三溪だった。創立総会で「横浜の外形は焼き尽くされたが、横浜の本体は厳然として存在している。それは市民の精神、市民の元気である」と語り、人々を勇気づけたという。
震災以降、三溪は美術品の蒐集をやめた。自身で専ら筆をとって描き、漢詩をたしなんで芸術への欲求を満たした。「

横浜では、震災で外国人向けホテルが焼失した。横浜の有力者たちは、ライバルである神戸港に実業が流れてしまえば復興はないと考えた。そこで復興のシンボルとして、外国人専用ホテルを急ピッチで建設した。プロジェクトをリードしたのもやはり三溪だった。初代社長には、震災のときに箱根から共に帰浜した野村洋三が就任した。

右/きめ細かな京都西陣織の「天女奏楽之図」
1927年、ホテルニューグランドは誕生した。和洋折衷の大階段や壮麗なロビーが特徴的だ。チャールズ・チャップリンやベーブ・ルースをはじめ、多くのVIPに愛された。ダグラス・マッカーサー元帥が進駐軍の滞留地を横浜にしたのも、同ホテルに宿泊するためだったと伝わる。マッカーサーが執務に当たった机と椅子は、現在もマッカーサーズスイートと呼ばれる部屋で使用されている。

中/同ホテルは、プリン・ア・ラ・モード発祥の地でもある
右/本館2階のザ・ロビーでは、天井から吊るされた伽藍の灯籠が東洋らしい優美さを放つ
プリン・ア・ラ・モードは同ホテルが発祥だ。第2次世界大戦後、同ホテルは将校宿舎として使われた。滞在していた米国将校夫人を喜ばせるデザートとして考案されたという。昔ながらのプリンとアイスクリームの製法を今でも守る。
三溪を筆頭に、横浜の発展と復興に尽力した実業家たちの思いは、今でも横浜の随所に脈々と残る。

ちょっと寄り道
中華の技法を駆使した伝統の肉料理
1924年に横浜中華街にて創業した広東料理専門店。炭火の自家窯で焼き上げるブタやアヒルの肉料理が評判だ。人気は肉料理の盛り合わせ。皮付き焼豚、蒸し鶏、煮込んだ豚タンやハチノス、腸詰めなどを楽しめる。グループで味わいたい。
■金陵
横浜市中区山下町131-5
https://sites.google.com/view/kinryo/

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