渋沢栄一の郷里を訪ねて
深谷[ 埼玉県 ]
- 渋沢栄一
- 中の家
- 日本煉瓦製造
- 誠之堂
- 諏訪神社
現在の1万円札の肖像画に採用されている渋沢栄一は1840年、埼玉県深谷市の農家に生まれた実業家だ。
500もの企業に関わり、600もの社会事業支援に努めた功績から"近代日本経済の父"と称される。
渋沢が生まれ育ち、生涯愛し続けた深谷を訪ねる。
"近代日本経済の父"と称される
実業家の軌跡を郷里にて知る
渋沢栄一は1840年、


右上/中庭には若き日の栄一の銅像が天を仰ぐ
左下/晩年の栄一が帰省時に滞在した上座敷
右下/屋根には、耐水性を上げる白い化粧漆喰が機能美を添える
中の家には文化財としての価値を保ちながら耐震安全性を向上させる工事が施され、現在の建物は2023年に竣工した。2階では大黒柱周りの耐震補強の様子を確認できる。工事によってあらわになった煉瓦製カマド跡も見学可能だ。1階には、栄一のアンドロイドと映像を組み合わせたイマーシブ(没入型)シアターが設置されている。帰郷した80代の栄一が血洗島での思い出などを語る。

右上/木材を生かした耐震補強を施す2階の天井
左下/1階のシアターでは、映像と共に栄一のアンドロイドが思い出を語る
右下/80代の栄一を精巧に再現したアンドロイド。身振り手振りを交えて話す
栄一は、

右/尾高惇忠生家の煉瓦蔵。栄一が設立に関わった日本煉瓦製造の煉瓦が使われたと伝わる
栄一は若くして藍玉の買い付けと販売に商才を現した。惇忠の妹・千代と結婚し、子どもも授かるが、政治熱の高まりと共に儒学と剣術を学ぶため江戸へ遊学する。
血洗島に戻った栄一は尊王攘夷の志をますます熱くし、惇忠宅2階にて高崎城乗っ取りや横浜外国商館焼き討ちの謀議を図った。計画は断念するが幕府から嫌疑を避け、世の中の状況を探るため、伊勢参りの体裁で村を出た。
栄一は、知遇を得ていた一橋家家臣の勧めにより、
当時、海外出張する幕臣は生死の程も定かでなく、渡航前に見立て養子と呼ばれる自分の後継を指名する慣習があった。栄一の見立て養子となったのが、惇忠の末弟・
慶喜が
富岡製糸場初代場長は惇忠が務めた。第一国立銀行の盛岡支店長、仙台支店長も務めた惇忠は、明治の
栄一は、官僚を辞めると第一国立銀行(現みずほ銀行)を創立し、総監役(のちの頭取)に就いた。33歳だった。以降、
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