偉人の軌跡をめぐる旅

    栄一の生地に残る主屋。1895年に建て替えられた

    建築の第一人者・田辺淳吉が設計した誠之堂。西洋風の田舎屋をイメージした

    現在の深谷駅の駅舎。つながりの深い東京駅を模して1996年に改築された

    栄一が記した諏訪神社の扁額

    偉人の軌跡をめぐる旅

    渋沢栄一の郷里を訪ねて
    深谷[ 埼玉県 ]

    • 渋沢栄一
    • 中の家
    • 日本煉瓦製造
    • 誠之堂
    • 諏訪神社
    更新

    現在の1万円札の肖像画に採用されている渋沢栄一は1840年、埼玉県深谷市の農家に生まれた実業家だ。
    500もの企業に関わり、600もの社会事業支援に努めた功績から"近代日本経済の父"と称される。
    渋沢が生まれ育ち、生涯愛し続けた深谷を訪ねる。

    "近代日本経済の父"と称される
    実業家の軌跡を郷里にて知る

    渋沢栄一は1840年、武蔵国榛沢郡血洗島(むさしのくにはんざわごおりちあらいじま)(現深谷市血洗島)の農家に生まれた。栄一の生地は、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の名称で公開されている。栄一が育った主屋は明治時代に建て替えられた。その後、火災で焼失したが1895年に再建された。

    栄一の生地に残る主屋。1895年に建て替えられた
    左上/中の家の正門。青淵翁誕生之地碑は幸田露伴の書
    右上/中庭には若き日の栄一の銅像が天を仰ぐ
    左下/晩年の栄一が帰省時に滞在した上座敷
    右下/屋根には、耐水性を上げる白い化粧漆喰が機能美を添える

    中の家には文化財としての価値を保ちながら耐震安全性を向上させる工事が施され、現在の建物は2023年に竣工した。2階では大黒柱周りの耐震補強の様子を確認できる。工事によってあらわになった煉瓦製カマド跡も見学可能だ。1階には、栄一のアンドロイドと映像を組み合わせたイマーシブ(没入型)シアターが設置されている。帰郷した80代の栄一が血洗島での思い出などを語る。

    左上/煉瓦製カマド跡も見学可能。2019年に始まった主屋改修工事で確認された
    右上/木材を生かした耐震補強を施す2階の天井
    左下/1階のシアターでは、映像と共に栄一のアンドロイドが思い出を語る
    右下/80代の栄一を精巧に再現したアンドロイド。身振り手振りを交えて話す

    栄一は、藍玉(あいだま)の製造・販売や養蚕の家業を幼い頃から手伝い、5歳頃から父・市郎右衛門(いちろうえもん)から漢文の手ほどきを受けた。7歳頃からは10歳上の従兄・尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとで論語をはじめとする学問を学んだ。惇忠の生家は、一部を見学できる。幼少時から学問に秀でた惇忠は、当家に私塾を開いて近隣の子弟を教育した。尊王論を中核とする水戸学に精通し、栄一にも多大な影響を与えたとされる。

    左/商家の特徴を残す尾高惇忠生家。養蚕の換気施設は後補されたものといわれる
    右/尾高惇忠生家の煉瓦蔵。栄一が設立に関わった日本煉瓦製造の煉瓦が使われたと伝わる

    栄一は若くして藍玉の買い付けと販売に商才を現した。惇忠の妹・千代と結婚し、子どもも授かるが、政治熱の高まりと共に儒学と剣術を学ぶため江戸へ遊学する。
    血洗島に戻った栄一は尊王攘夷の志をますます熱くし、惇忠宅2階にて高崎城乗っ取りや横浜外国商館焼き討ちの謀議を図った。計画は断念するが幕府から嫌疑を避け、世の中の状況を探るため、伊勢参りの体裁で村を出た。

    栄一は、知遇を得ていた一橋家家臣の勧めにより、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、のちに最後の将軍となる徳川慶喜に仕える。財政改善に手腕を発揮し重用された。慶喜の弟・昭武(あきたけ)による欧州視察の随行員に抜てきされ渡欧する。
    当時、海外出張する幕臣は生死の程も定かでなく、渡航前に見立て養子と呼ばれる自分の後継を指名する慣習があった。栄一の見立て養子となったのが、惇忠の末弟・平九郎(へいくろう)だ。大政奉還(たいせいほうかん)などにより欧州視察は1年余りで幕を閉じた。栄一が帰国すると、平九郎は戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に反抗して戦い自害していた。栄一は、見立てとはいえ我が子の死を悲しみ、生涯供養を続けたという。

    慶喜が蟄居(ちっきょ)した静岡で、栄一は商法会所を設立し、頭取に就任した。現行でいう銀行と商社を合体させた企業組織だ。フランスで得た知識を生かして考案した。才覚が認められ明治政府に登用されると、栄一は度量衡(どりょうこう)や暦法、鉄道、郵便、財政といった多種多様な制度の企画・立案にあたり、富岡製糸場の設立にも手腕を発揮した。
    富岡製糸場初代場長は惇忠が務めた。第一国立銀行の盛岡支店長、仙台支店長も務めた惇忠は、明治の殖産興業(しょくさんこうぎょう)の流れの中、実業界で大いに活躍した。尾高家も、栄一と共に日本の近代化に極めて重要な役割を果たしている。

    栄一は、官僚を辞めると第一国立銀行(現みずほ銀行)を創立し、総監役(のちの頭取)に就いた。33歳だった。以降、怒涛(どとう)の勢いで企業の設立や経営に関わっていく。製紙、保険、紡績、海運、ガス、鉄道、化学、製鉄、ホテル、ビールと多種多様な業種に関わりおよそ500社にも及ぶ。現在も存続する大企業が多い。

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