人材教育を重んじた水戸藩を訪ねて
水戸[ 茨城県 ]
- 徳川斉昭
- 水戸徳川家
- 偕楽園
- 弘道館
- 常磐神社
水戸藩の財政ひっ迫と対外危機の高まりを受け
藩政改革に手腕を発揮したのが9代藩主の徳川斉昭だ。
斉昭は矢継ぎ早に行った施策の中でも特に人材育成を重んじ
次世代の教育に力を注いだ。先駆的な教育によって
水戸を学問の府へと発展させた斉昭の功績をたどる。
藩政改革の目玉として
全国最大規模の藩校を創設
水戸徳川家は徳川御三家の一つで、歴代当主が水戸藩主を務めた。水戸黄門として知られる2代目藩主の徳川
水戸学を

約10.5ヘクタールの敷地には、文武の試験を行う
幕末維新期の藩内抗争により文館、武館、医学館などが焼失し、1945年の水戸空襲では八卦堂、孔子廟などが焼失した。戦災を免れた正門、正庁、至善堂は1964年に国指定重要文化財となる。
2015年には弘道館、偕楽園などが「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定された。ほぼ創設時の状態で保存される正庁や至善堂に、現在も江戸後期の雰囲気が残る。

右上/藩主が臨席して試験や諸儀式が行われた正庁正席の間
左下/来館者控えの間である諸役会所。尊王攘夷を略した「尊攘」の掛け軸が掲げられる
右下/斉昭の息子・慶喜が幼少期に学び、大政奉還後は謹慎した至善堂

弘道館では藩士と子弟が学んだ。15歳から40歳までの就学が義務付けられ、卒業制度がない生涯教育の実践場だった。正庁には斉昭が書いた
弘道館では、文芸においては儒学、礼儀、歴史、天文、数学、地図、和歌、音楽、武芸においては剣術、槍術、柔術、兵学、鉄砲、馬術、水泳と多様な教育が行われた。医学館では医術の教授に加え、種痘や製薬も実施された。弘道館はきめ細かな教育体系を備え、総合大学の機能を担った。
公園内の八卦堂には、弘道館の建学の精神と教育方針を記した弘道館記碑が納められる。斉昭が腹心の

右/八卦堂の屋根は、8本の柱と軒を連結する凝った
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