偉人の軌跡をめぐる旅

    弘道館の正庁。学校御殿とも呼ばれる。文武の試験や諸儀式に用いられた建物だ

    斉昭の書による扁額「游於藝」。論語の一節により"教養を楽しむ"の意を持つ

    偕楽園は表門から入ると、孟宗竹林、大杉森、熊笹が茂る陰の世界が広がる

    園内の高台に建つ好文亭。斉昭自らが設計した建物は素朴かつ優雅な風情だ

    偉人の軌跡をめぐる旅

    人材教育を重んじた水戸藩を訪ねて
    水戸[ 茨城県 ]

    • 徳川斉昭
    • 水戸徳川家
    • 偕楽園
    • 弘道館
    • 常磐神社
    更新

    水戸藩の財政ひっ迫と対外危機の高まりを受け
    藩政改革に手腕を発揮したのが9代藩主の徳川斉昭だ。
    斉昭は矢継ぎ早に行った施策の中でも特に人材育成を重んじ
    次世代の教育に力を注いだ。先駆的な教育によって
    水戸を学問の府へと発展させた斉昭の功績をたどる。

    藩政改革の目玉として
    全国最大規模の藩校を創設

    水戸徳川家は徳川御三家の一つで、歴代当主が水戸藩主を務めた。水戸黄門として知られる2代目藩主の徳川光圀(みつくに)が有名だ。江戸時代中期、光圀は歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)を開始した。編纂の過程で形成された学問は「水戸学」となり、広く影響を与えていった。
    水戸学を尊王攘夷(そんのうじょうい)の基盤として発展させたのが9代目の徳川斉昭(なりあき)だ。人材育成を重視した斉昭は、1841年に藩政改革の目玉として水戸城三の丸に藩校・弘道館(こうどうかん)を創設した。

    弘道館の正庁。学校御殿とも呼ばれる。文武の試験や諸儀式に用いられた建物だ

    約10.5ヘクタールの敷地には、文武の試験を行う正庁(せいちょう)や来館者控えの間である諸役会所(しょやくかいしょ)、藩主の座所である至善堂(しぜんどう)がある。さらに文館や武館、医学館、天文台、八卦堂(はっけどう)鹿島(かしま)神社、孔子廟(こうしびょう)が建設され、馬場や矢場、砲術場も備えた。藩校として全国最大級の規模だった。
    幕末維新期の藩内抗争により文館、武館、医学館などが焼失し、1945年の水戸空襲では八卦堂、孔子廟などが焼失した。戦災を免れた正門、正庁、至善堂は1964年に国指定重要文化財となる。
    2015年には弘道館、偕楽園などが「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定された。ほぼ創設時の状態で保存される正庁や至善堂に、現在も江戸後期の雰囲気が残る。

    左上/縁側から見る対試場。武術の試験や他藩士との試合が行われた
    右上/藩主が臨席して試験や諸儀式が行われた正庁正席の間
    左下/来館者控えの間である諸役会所。尊王攘夷を略した「尊攘」の掛け軸が掲げられる
    右下/斉昭の息子・慶喜が幼少期に学び、大政奉還後は謹慎した至善堂
    斉昭の書による扁額「游於藝」。論語の一節により"教養を楽しむ"の意を持つ

    弘道館では藩士と子弟が学んだ。15歳から40歳までの就学が義務付けられ、卒業制度がない生涯教育の実践場だった。正庁には斉昭が書いた扁額(へんがく)が掲げられ、凛とした空気が漂う。扁額の「游於藝」は"げいにあそぶ"と読む。孔子の論語だ。藝とは礼(礼儀作法)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(書道)、数(数学)の六芸を指す。悠々と幅広い分野の学びが推奨された。
    弘道館では、文芸においては儒学、礼儀、歴史、天文、数学、地図、和歌、音楽、武芸においては剣術、槍術、柔術、兵学、鉄砲、馬術、水泳と多様な教育が行われた。医学館では医術の教授に加え、種痘や製薬も実施された。弘道館はきめ細かな教育体系を備え、総合大学の機能を担った。

    公園内の八卦堂には、弘道館の建学の精神と教育方針を記した弘道館記碑が納められる。斉昭が腹心の藤田東湖(ふじたとうこ)に起草を命じた『弘道館記』が刻まれた石碑だ。通常は非公開だが、記念日によっては特別公開される。

    左/八卦堂。中には弘道館を建てた目的や教育方針を示した弘道館記碑が納まる
    右/八卦堂の屋根は、8本の柱と軒を連結する凝った斗組(ますぐ)みだ

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