藩の育成と繁栄を導いた
伊達政宗を訪ねて
宮城[ 宮城県 ]
- 伊達政宗
- 仙台城
- 瑞巌寺
- 五大堂
- 瑞鳳殿
政治・軍事に優れた手腕を発揮した伊達政宗は
"陸奥の覇者"として知られる名武将だ。
戦国時代から太平の世に向かう中で
仙台藩を創設し発展させた経営者としての顔も持つ。
産業育成・振興のリーダーとしての政宗の足跡を追う。
理想の杜の都を築き
領民の安寧を願う
関ヶ原の戦い後、伊達政宗はかつて

仙台城は最高位標高約131mの高台にある。東と南を
天守を持たないのは、
建物はすべて明治維新の取り壊しや火災、太平洋戦争の空襲で失われ、本丸にあるのは大広間跡の遺構だ。14の部屋から成る大広間は、桃山建築の粋を集めた豪壮華麗な建物だったと伝わる。大広間跡に立つと、ダイナミックなスケールを体感できる。

右/城で唯一の現存建築物である大手門北側土塀。

伊達政宗公騎馬像が立つ本丸北壁石垣から、仙台市内を遠望する。街全体が緑に包まれ、「杜の都」に合点がいく。400年以上前、政宗は家臣に多様な植樹を推奨した。飢餓に備えるためだ。屋敷内には栗、柿、梅などの実がなる木と竹が、隣地との境には杉が植えられた。やがて屋敷林と寺社の林、広瀬川河畔や青葉山の緑は一体となり、杜の都へと発展していく。
政宗は、領民の精神的な拠り所として、神社仏閣の造営にも力を入れた。代表格が、松島にある
瑞巌寺は、平安時代の創建後、

左/本堂と共に国宝に指定される庫裡。堂内へはここから入る
右/参道右側の壁面には、供養塔を彫った洞窟遺跡群が残る
本堂の中心となる

伊達家の藩主が使用した上段の間には、明かり取りの大きな
上段の間に隣接する上々段の間は、皇族を迎えるために造られたと伝わる。明治時代には、明治天皇が東北
本堂の南西端には

右上/文王と呂尚の出会い、周の国都・洛陽の繁栄を描いた文王の間
左下/文王の間の廊下にある扁額には、政宗による寺復興の経緯と意図が記される
右下/欄間に施された彫刻は透かし彫りの「葡萄に栗鼠」
瑞巌寺の境外仏堂である

右/国重要文化財の五大堂。東北地方に残る最古の桃山建築だ

日本三景に数えられる松島の絶景を楽しめるのが、
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