偉人の軌跡をめぐる旅

    仙台城本丸跡には、伊達政宗公騎馬像が立つ。杜の都のシンボルだ

    室内(孔雀の間)。襖絵は向かって右から左に冬、夏、春、秋を描き、世俗的な時間を超越した場所であると表現している

    極彩色の本殿。細部に至るまで緻密な技巧が施された建築に思わず息をのむ

    三滝玄武岩の石段が続く参道には、凛とした空気が漂う

    偉人の軌跡をめぐる旅

    藩の育成と繁栄を導いた
    伊達政宗を訪ねて

    宮城[ 宮城県 ]

    • 伊達政宗
    • 仙台城
    • 瑞巌寺
    • 五大堂
    • 瑞鳳殿
    更新

    政治・軍事に優れた手腕を発揮した伊達政宗は
    "陸奥の覇者"として知られる名武将だ。
    戦国時代から太平の世に向かう中で
    仙台藩を創設し発展させた経営者としての顔も持つ。
    産業育成・振興のリーダーとしての政宗の足跡を追う。

    理想の杜の都を築き
    領民の安寧を願う

    関ヶ原の戦い後、伊達政宗はかつて国分(こくぶん)氏が支配した千代(せんだい)に都を建設する。青葉山にある国分氏の旧居城、千代城を仙臺(せんだい)城と改称した。別名を青葉城ともいう。「仙臺」は中国の詩の一句「仙臺初見五城楼(せんだいしょけんごじょうろう)」から引用された。仙人が住む理想郷を意味する。やがて新字体を使った「仙台」が一般化した。

    仙台城本丸跡には、伊達政宗公騎馬像が立つ。杜の都のシンボルだ

    仙台城は最高位標高約131mの高台にある。東と南を広瀬(ひろせ)川と(たつ)(くち)渓谷の断崖、西を険しい山に囲まれた要害の地だ。本丸の広さは東西245m・南北267mと、諸大名の城郭としては最大級だった。数多くの御殿建物を集積し、さながら空中都市の様相を呈したとされる。
    天守を持たないのは、徳川家康(とくがわいえやす)に敵意がないと示すためだったと伝わる。築城後、城を訪れたイスパニア使節のビスカイノは「日本における最強で最良の城の一つ」と称賛した。

    建物はすべて明治維新の取り壊しや火災、太平洋戦争の空襲で失われ、本丸にあるのは大広間跡の遺構だ。14の部屋から成る大広間は、桃山建築の粋を集めた豪壮華麗な建物だったと伝わる。大広間跡に立つと、ダイナミックなスケールを体感できる。

    左/仙台城の大広間跡では、礎石の配列から建物の大きさを実感できる
    右/城で唯一の現存建築物である大手門北側土塀。切込接(きりこみはぎ)の石垣が美しい
    本丸北壁石垣の上から仙台市内を見渡す。緑が豊かであると分かる

    伊達政宗公騎馬像が立つ本丸北壁石垣から、仙台市内を遠望する。街全体が緑に包まれ、「杜の都」に合点がいく。400年以上前、政宗は家臣に多様な植樹を推奨した。飢餓に備えるためだ。屋敷内には栗、柿、梅などの実がなる木と竹が、隣地との境には杉が植えられた。やがて屋敷林と寺社の林、広瀬川河畔や青葉山の緑は一体となり、杜の都へと発展していく。

    政宗は、領民の精神的な拠り所として、神社仏閣の造営にも力を入れた。代表格が、松島にある瑞巌寺(ずいがんじ)だ。仙台城跡から車で約45分にある。
    瑞巌寺は、平安時代の創建後、天台宗延福寺(てんだいしゅうえんぷくじ)臨済宗建長寺派円福寺(りんざいしゅうけんちょうじはえんぷくじ)臨済宗妙心寺派円福寺(りんざいしゅうみょうしんじはえんぷくじ)と変遷した。政宗は、廃墟同然に衰退していた寺の再興に力を入れた。畿内から一流の職人たちを集め、5年の歳月をかけて全面改築し、瑞巌寺として完成させる。領内随一の規模と格式を誇る寺だ。現存する建物の多くが、政宗の造営時の姿を残す。本堂及び本堂とつながる廊下を含めた庫裡(くり)は国宝だ。

    上/本堂は正面38m、奥行24.2m、棟高17.3mと堂々たるたたずまい
    左/本堂と共に国宝に指定される庫裡。堂内へはここから入る
    右/参道右側の壁面には、供養塔を彫った洞窟遺跡群が残る

    入母屋(いりもや)造り本瓦葺(ほんがわらぶ)きの本堂は、10室から成る大規模な建物だ。各室は絢爛(けんらん)な絵画や彫刻で装飾される。
    本堂の中心となる室中(しっちゅう)孔雀(くじゃく)の間)では、法要が営まれる。襖絵の「松孔雀(しょうくじゃく)図」は、仙台藩最初のお抱え絵師である狩野左京(かのうさきょう)の作だ。正面には、天人が雲に乗って空中に現れる姿を表現した「雲に飛天」の彫刻が飾られる。絵画と共に「此の世の浄土」を示している。

    室中(孔雀の間)。襖絵は向かって右から左に冬、夏、春、秋を描き、世俗的な時間を超越した場所であると表現している

    伊達家の藩主が使用した上段の間には、明かり取りの大きな火頭窓(かとうまど)がある。床の間には「梅竹図」が、帳台構(ちょうだいがまえ)には「牡丹図」が描かれ、政宗の気高い美意識が感じられる。
    文王(ぶんおう)の間は、伊達家一門の控えの間として設えられた。襖絵は桃山時代の絵師、長谷川等胤(とういん)による「文王呂尚(ぶんのうりょしょう)図」だ。理想の国家といわれる周王朝(しゅうおうちょう)の様子を描いている。
    上段の間に隣接する上々段の間は、皇族を迎えるために造られたと伝わる。明治時代には、明治天皇が東北御巡幸(ごじゅんこう)の際に、上々段の間で一夜を過ごした。
    本堂の南西端には御成(おなり)玄関がある。天皇や皇族、藩主の専用出入り口だ。欄間には子孫繁栄を意味する「葡萄(ぶどう)栗鼠(きねずみ)」の透かし彫りが施される。

    左上/上段の間。床の間の梅竹図は高潔と清操を、帳台構の牡丹図は富貴を表す
    右上/文王と呂尚の出会い、周の国都・洛陽の繁栄を描いた文王の間
    左下/文王の間の廊下にある扁額には、政宗による寺復興の経緯と意図が記される
    右下/欄間に施された彫刻は透かし彫りの「葡萄に栗鼠」

    瑞巌寺の境外仏堂である五大堂(ごだいどう)は、海岸と橋でつながる小島に建つ。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、東征の際に建立した毘沙門(びしゃもん)堂が起源だ。後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)五大明王像(ごだいみょうおうぞう)を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになる。政宗は、瑞巌寺の造営に先んじて五大堂を再建した。東北地方に現存する最古の桃山建築であり、国重要文化財に指定されている。秘仏とされる五大明王像は33年に一度開帳される。次回は2039年の予定だ。

    左/松島のシンボルである五大堂へは、対岸へと続く赤い橋を渡る
    右/国重要文化財の五大堂。東北地方に残る最古の桃山建築だ
    西行戻しの松公園から松島湾を望む。入り組んだ湾が唯一無二の絶景をつくる

    日本三景に数えられる松島の絶景を楽しめるのが、西行戻(さいぎょうもど)しの松公園だ。高台には伝説が残る。鎌倉時代の歌人・西行(さいぎょう)法師が、諸国行脚(あんぎゃ)の折に、松の大木の下で子どもと禅問答をし、破れて引き返したとの言い伝えだ。現在、松島湾を箱庭のように眺められる絶景スポットとして知られる。

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