偉人の軌跡をめぐる旅

    二宮金次郎のブロンズ像。メートル法の普及を目的に高さ1mで作られた

    小田原城の天守閣。市制20周年に当たる1960年に復興された

    尊徳の生家。当時の足柄平野の中流農家の典型とされる寄棟造りだ

    尊徳の筆による書状。栢山村の二宮吉五郎に宛てた長文だ。村の五常講の帳簿について間違いを指摘し、資金運用を助言している

    偉人の軌跡をめぐる旅

    農家出身の経営コンサルタント
    二宮尊徳を訪ねて

    小田原[ 神奈川県 ]

    • 二宮尊徳
    • 報徳二宮神社
    • 小田原城
    • 尊徳記念館
    更新

    薪を背負った少年の銅像で知られる二宮金次郎。
    のちに農民から武士となって、二宮尊徳と名乗り
    各地の農村振興に尽力した。
    多種多様かつ画期的なアイデアを実行した経世家であり
    後世にも大きな影響を与える尊徳の足跡を追った。

    向学心と地道な努力が
    着実に実を結ぶ

    二宮尊徳(にのみやそんとく)は、正しくは"たかのり"だが、通称の"そんとく"で知られる。報徳二宮神社は、尊徳を御祭神(ごさいじん)としてまつる神社だ。1894年、尊徳の生誕地である小田原市内、小田原城二の丸小峰曲輪(こみねくるわ)の一角に創建された。境内には、二宮金次郎(きんじろう)像が立つ。薪を背負い、本を読みながら歩く少年を表現したブロンズ像だ。二宮尊徳または二宮金次郎と聞いて、この少年像を思い浮かべる人も多いだろう。二宮金次郎像は、3代目慶寺丹長(けいじたんちょう)が制作し、1928年に昭和天皇即位御大礼記念として寄進された。像の高さはメートル法の普及を目的にちょうど1mに作られている。同じ像は1000体ほど制作され、全国の小学校に配置されたが、戦時下に供出され、現存は報徳二宮神社の1体のみという。

    二宮金次郎のブロンズ像。メートル法の普及を目的に高さ1mで作られた

    報徳二宮神社の大鳥居は、創建120周年事業として、2017年に約3年かけて建立された。樹齢300年の小田原産の大スギを御用材とし、崇高な雰囲気が漂う。大鳥居をくぐって参道を歩くと、神明(しんめい)造りの社殿が見えてくる。1909年に本殿と幣殿が新築、拝殿が改築された。参道と境内は木々に囲まれ、神池にはニシキゴイが泳ぐ。小田原市中心部に立地するが、神社一帯には静かな時間が流れている。

    大鳥居。樹齢約300年の大スギが息づく神域への門だ
    伊勢神宮正殿のような神明造りの社殿。1909年に改築・新築された
    上/本殿手前の神池には、ニシキゴイが悠々と泳ぐ
    左下/尊徳は56歳のとき、幕臣になった。(かみしも)姿で絵馬に描かれる
    右下/二宮尊徳翁立像。大人になって現場を指導する姿を表現する

    尊徳は、幼少の頃から勤勉で向学心旺盛だった。1787年に現在の小田原市栢山(かやま)の農家に長男として生まれた。幼少期は裕福だったが、1791年の酒匂(さかわ)川の氾濫により、二宮家の田畑はほとんどが土砂に埋まり、暮らしは困窮した。大病にかかった父に代わり、尊徳は11歳で堤防工事の人足に出た。
    13歳のとき、父が亡くなった。尊徳は、母と弟2人の一家4人の生計を立てた。早朝に山で柴を刈り、昼は農作業、夜は縄や草鞋(わらじ)作りに精を出した。15歳で母も亡くし、弟たちは母の実家に預けた。同年、再び洪水により田畑が荒廃する。尊徳は田畑を手離し、伯父の家に身を寄せた。身を立てるには学問より他にないと考え、深夜まで勉学に一層励んだと伝わる。
    18歳でわが家に戻ると少しずつ田畑を買い戻し、荒地を耕していった。23歳で購入した田畑は元の所有面積に達し、家の立て直しを事実上成し遂げた。

    尊徳は、財政と農村再建の専門家としての道をまい進し始める。財政難にあえぐ小田原藩家老の服部(はっとり)家は、家政の立て直しを尊徳に依頼した。尊徳は5カ年計画により負債を整理し、多額の余剰金を生み出して財政再建に成功する。
    34歳のときには、小田原藩の命により下野国桜町(しもつけのくにさくらまち)領(現在の栃木県真岡市)の立て直しにも取り組み、10年にわたる苦労の末に成し遂げた。評判を聞きつけた武士からは、領地立て直しの依頼が次々と舞い込んだ。尊徳は、経営コンサルタントとしての才能を開花させ、発揮していった。

    1837年、天保の大飢饉(ききん)において、尊徳は、小田原藩が所有する蔵米を開放し、困窮した農民たちに米を配布すべきと主張した。米は小田原城内に眠っていた。尊徳は渋る官僚たちを説得し、城内の米を開放した。結果、小田原領内では一人の餓死者も出さなかったという。

    小田原城の天守閣。市制20周年に当たる1960年に復興された

    小田原城は難攻不落の城として有名だ。戦国時代には、総延長9kmに及ぶ城と城下町一帯を、堀と土塁で囲む総構(そうがま)えで防御した。さらに江戸期には、本丸までは銅門(あかがねもん)など頑強な門がいくつも立ちはだかる。太平の世である江戸後期に生きた尊徳は、城を領民に開かれたセーフティーネットの一部と捉えていたのかもしれない。

    上/本丸の正門に当たる常盤木門(ときわぎもん)。重要な防衛拠点として大きく堅固な造りだ
    左下/二の丸の表門に当たる銅門。大扉に飾られた銅を用いた金具に由来する
    右下/敷地内で見事な枝を広げるイヌマキ。樹齢520年以上とされる
    天守閣最上階は標高約60mあり、相模湾を一望できる。房総半島がはっきり見える日もある

    農業はもとより土木建築から金融、文学まで幅広い教養と優れた才能を持つ尊徳は、無私の精神で農民の安寧に尽力した。小田原市内には、尊徳にまつわる逸話が数多く残る。
    酒匂川の堤防に植栽された約400本のクロマツ並木は、尊徳が植えたとの伝説がある。13歳の尊徳が、子守で得た駄賃で200本の苗を購入して植えたという。やがて並木となり、大きく根を張ったクロマツは治水に役立った。防風林としても田畑を守ってきたという。

    酒匂川の堤防上にあるクロマツ並木。尊徳が植えたとの伝説が残る。河口まで約400本ある

    栢山地区には捨苗(すてなえ)栽培地跡と呼ばれる場所がある。少年時代の尊徳は、捨てられた稲苗を拾い集めては空き地に植えて収穫した。やがて大きな収穫に結び付けたと伝わる。小さな努力の積み重ねが大切とする尊徳の教え「積小為大(せきしょういだい)」を象徴するエピソードだ。
    長期的な視点で自然環境の保全と街づくりに関わり、貧困や飢餓問題の解決にも取り組んだ尊徳の姿勢は、現代のSDGsに合致する。

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