改革の名君・上杉鷹山を訪ねて
米沢[ 山形県 ]
- 上杉鷹山
- 上杉神社
- 小野川温泉
- 米沢織
- 上杉家廟所
江戸時代後期、困窮した米沢藩の財政立て直しを
託されたのは、17歳で藩主になった上杉鷹山だった。
鷹山は誠実なリーダーとして領民を率い
地道な改革を重ねて見事に藩の再興を果たす。
より良い社会を夢見てまい進した鷹山の足跡を追う。
自ら厳しい倹約を率先し
領民一丸となった改革を断行
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
上杉神社には、鷹山が領民を指揮する姿の銅像と共に、この言葉を記した石碑が立つ。
左下/石碑の横に立つ上杉鷹山像。藩のリーダーとして指揮を執る様子が凛々しい
右下/鷹山像は上杉神社の境内の外でも見られる。地元の鷹山愛がうかがえる
鷹山は1751年、
上杉家は、家祖である上杉
藩は困窮にあえぎ、破産同然に陥った。家臣に給与を払えず、武士を廃業する者が続出した。農民には高い税が課せられた。別地に逃亡する者や生まれた子の間引きが増え、藩の人口は減少する。危機感を募らせた藩士たちから財政再建を託されたのが、養子に迎えられ家督を継いだ17歳の鷹山だった。
米沢城址である
左下/上杉神社の最奥部には、謙信をまつる社殿がたたずむ
右下/社殿に隣接する福徳稲荷神社は米沢の鎮守だ。鷹山が信仰した稲荷を合祀した
上杉神社の奥へ進むと末社である春日神社にたどり着く。鷹山が藩の再建を願い、誓詞を奉納した。学問や武芸に励み、不正のない藩となるよう誓ったと伝わる。
上杉神社の摂社として、鷹山をまつるのが
1923年に景勝を合祀し、1938年に景勝の重臣だった
左下/松岬神社。鷹山に崇敬を寄せる参詣者が引きも切らない
右下/鷹山をまつる社殿。上杉神社から分祀した
鷹山は極めて堅実な施策で改革を進めた。藩主就任後に大倹約令を発布し、藩主自らが生活費を7分の2に削減すると誓い、生活を極限まで切り詰めた。
倹約の一方で、新規事業を興す産業開発にも注力した。繊維の原料となる
鷹山は養蚕を積極的に奨励した。自ら節約して桑の苗木を買い、領内の希望者に無償で配ったと伝わる。松が岬公園内の上杉記念館の近くには、鷹山が配布した苗木を先祖に持つ桑の木が植えられている。毎年夏に旺盛に葉を茂らせる様子は、鷹山の養蚕にかける熱意を今に伝えるかのようだ。
松が岬公園内にはウコギの垣根も見られる。ウコギの垣根は鷹山の奨励により、米沢藩内に普及したと伝わる。ウコギは食用に適しビタミンが豊富だ。春先には新芽を和え物や天ぷらにできる。
左下/公園内では鷹山が普及させたウコギの垣根も見られる
右下/鷹山は鯉の養殖にも尽力した。米沢城址の堀には今も多くの鯉が泳ぐ
食用の養殖鯉である米沢鯉は有名だ。鷹山が冬のたんぱく源確保を目的に、米沢城の堀で鯉の養殖を始めたのが起源とされる。鯉料理は領内に普及し、祝いの席に欠かせない食べ物となった。現在も、多くの鯉が堀を悠々と泳いでいる。
鷹山は、
鷹山は自ら田畑へ入り、
米沢盆地の水不足解消にも尽力した。鷹山は水路建設に力を入れ、安定的な農業の基盤を整えた。メイン産業である農業を、抜本的な意識改革とインフラ整備の両輪で改革していった。
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