偉人の軌跡をめぐる旅

    上杉家廟所。13の廟がずらりと並ぶ。入り口に謙信の旗印「毘」と「かりみだのりゅう」の旗が堂々と掲げられる

    石碑の横に立つ上杉鷹山像。藩のリーダーとして指揮を執る様子が凛々しい

    米沢城址に建立された上杉神社。敷地内には多くの緑が生い茂る

    鷹山が藩の再建を願い、誓詞を奉納した春日神社。上杉神社の森の中にある

    偉人の軌跡をめぐる旅

    改革の名君・上杉鷹山を訪ねて
    米沢[ 山形県 ]

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    江戸時代後期、困窮した米沢藩の財政立て直しを
    託されたのは、17歳で藩主になった上杉鷹山だった。
    鷹山は誠実なリーダーとして領民を率い
    地道な改革を重ねて見事に藩の再興を果たす。
    より良い社会を夢見てまい進した鷹山の足跡を追う。

    自ら厳しい倹約を率先し
    領民一丸となった改革を断行

    「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
    米沢よねざわ藩主・上杉鷹山うえすぎようざんの言葉だ。"どんなことも行動すれば達成できるが、行動しなければ成し遂げられない。結果が出ないのは行動が足りないからだ"という意味だ。
    上杉神社には、鷹山が領民を指揮する姿の銅像と共に、この言葉を記した石碑が立つ。

    上/上杉神社に立つ石碑には鷹山の名言が刻まれる
    左下/石碑の横に立つ上杉鷹山像。藩のリーダーとして指揮を執る様子が凛々しい
    右下/鷹山像は上杉神社の境内の外でも見られる。地元の鷹山愛がうかがえる

    鷹山は1751年、日向国高鍋ひゅうがのくにたかなべ藩主の次男として江戸に生まれた。本名は治憲はるのりという。9歳で米沢藩主・上杉重定しげさだの養子となり、17歳で9代藩主に就任した。藩が深刻な財政難にあえぐ最中だった。

    上杉家は、家祖である上杉謙信けんしんが越後・北陸・北信濃・関東方面に勢力を拡大した。次代の上杉景勝かげかつの時に豊臣秀吉とよとみひでよしの五大老の一人として、会津120万石を領した。徳川家康とくがわいえやすとの対立や世継ぎ問題の混乱により、15万石にまで減封される。

    藩は困窮にあえぎ、破産同然に陥った。家臣に給与を払えず、武士を廃業する者が続出した。農民には高い税が課せられた。別地に逃亡する者や生まれた子の間引きが増え、藩の人口は減少する。危機感を募らせた藩士たちから財政再建を託されたのが、養子に迎えられ家督を継いだ17歳の鷹山だった。

    米沢城址であるまつさき公園に建立されたのが上杉神社だ。同社は戦国時代最強の武将ともいわれた謙信を祭神としてまつる。謙信の武勇にあやかり、開運招福、諸願成就、学業成就、商売繁盛、勝負運に御利益ごりやくがあるとされる。

    上/米沢城址に建立された上杉神社。敷地内には多くの緑が生い茂る
    左下/上杉神社の最奥部には、謙信をまつる社殿がたたずむ
    右下/社殿に隣接する福徳稲荷神社は米沢の鎮守だ。鷹山が信仰した稲荷を合祀した

    上杉神社の奥へ進むと末社である春日神社にたどり着く。鷹山が藩の再建を願い、誓詞を奉納した。学問や武芸に励み、不正のない藩となるよう誓ったと伝わる。
    上杉神社の摂社として、鷹山をまつるのが松岬まつがさき神社だ。1902年に上杉神社から鷹山を分祀した。社名は米沢城の別名である松岬城に由来する。地域の人々から鷹山への敬愛の深さを象徴する名称と言える。
    1923年に景勝を合祀し、1938年に景勝の重臣だった直江兼続なおえかねつぐ、鷹山の師だった細井平洲ほそいへいしゅう、鷹山の功臣2名も合祀し、現在は六柱の祭神をまつる。

    上/鷹山が藩の再建を願い、誓詞を奉納した春日神社。上杉神社の森の中にある
    左下/松岬神社。鷹山に崇敬を寄せる参詣者が引きも切らない
    右下/鷹山をまつる社殿。上杉神社から分祀した

    鷹山は極めて堅実な施策で改革を進めた。藩主就任後に大倹約令を発布し、藩主自らが生活費を7分の2に削減すると誓い、生活を極限まで切り詰めた。奥女中おくじょちゅうは50人から9人に減らした。日常の食事は一汁一菜を守り、衣服は絹をやめて木綿のみとした。鷹山は生涯これを貫いたと伝わる。

    倹約の一方で、新規事業を興す産業開発にも注力した。繊維の原料となる青苧あおそに加え、蝋燭ろうそくの原料となるうるし養蚕ようさんかいこの餌となる桑、和紙の原料となるこうぞをそれぞれ100万本栽培し始めたという。

    鷹山は養蚕を積極的に奨励した。自ら節約して桑の苗木を買い、領内の希望者に無償で配ったと伝わる。松が岬公園内の上杉記念館の近くには、鷹山が配布した苗木を先祖に持つ桑の木が植えられている。毎年夏に旺盛に葉を茂らせる様子は、鷹山の養蚕にかける熱意を今に伝えるかのようだ。

    松が岬公園内にはウコギの垣根も見られる。ウコギの垣根は鷹山の奨励により、米沢藩内に普及したと伝わる。ウコギは食用に適しビタミンが豊富だ。春先には新芽を和え物や天ぷらにできる。

    上/松が岬公園内にある桑の木は、鷹山が配布した苗木を先祖に持つ
    左下/公園内では鷹山が普及させたウコギの垣根も見られる
    右下/鷹山は鯉の養殖にも尽力した。米沢城址の堀には今も多くの鯉が泳ぐ

    食用の養殖鯉である米沢鯉は有名だ。鷹山が冬のたんぱく源確保を目的に、米沢城の堀で鯉の養殖を始めたのが起源とされる。鯉料理は領内に普及し、祝いの席に欠かせない食べ物となった。現在も、多くの鯉が堀を悠々と泳いでいる。

    鷹山は、飢饉ききんへの備えとして食用にできる植物をまとめた手引書『かてもの』を発行し、領民に配布した。さらに備籾蔵そなえもみぐらを設置し、凶作に備えて農民から籾を集めて備蓄した。天明てんめい大飢饉だいききんで米価が高騰する中においては、新潟や酒田から1万俵もの米を買い付け、領民に分け与えた。鷹山の采配による備えや臨機応変な政策により、領内では天明の大飢饉の餓死者を出さなかったと伝わる。

    鷹山は自ら田畑へ入り、くわ入れする儀礼も行った。農業の尊さと農業振興にかける本気度を領民に伝えるためだ。下級武士の二男三男以下の者は農業に従事させた。家臣団による新田開発は、米の生産量の増加に大いに寄与した。
    米沢盆地の水不足解消にも尽力した。鷹山は水路建設に力を入れ、安定的な農業の基盤を整えた。メイン産業である農業を、抜本的な意識改革とインフラ整備の両輪で改革していった。

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