偉人の軌跡をめぐる旅

    日新館南門。人材育成を担った藩校として多様な学問と武芸を教授した

    必須科目の弓術を鍛錬する弓道場。背後に磐梯山が遠望できる

    戊辰戦争の激戦地としても知られる鶴ヶ城。国内唯一の赤瓦の城だ

    歴代の藩主が過ごした御薬園。心字池の奥に御茶屋御殿がたたずむ

    偉人の軌跡をめぐる旅

    教育と持続的繁栄に注力した
    会津藩を訪ねて

    会津[ 福島県 ]

    • 會津藩校日新館
    • 鶴ヶ城
    • 御薬園
    • 会津塗
    更新

    会津藩が持続的な繁栄を築けた背景には
    歴代の名君による教育への投資と
    領民の生活向上を願う政策があった。
    日本最大級の藩校を擁し、農業と商業の発展を
    着実に積み重ねた会津藩の歩みをたどる。

    最高レベルの教育を
    日本最大級の藩校で

    会津藩には青少年の教育に力を入れる伝統があった。象徴的な場所が、会津若松市郊外にある會津藩校日新館あいづはんこうにっしんかんだ。
    日新館は、初代藩主である保科正之ほしなまさゆきが開設した学問所、稽古堂けいこどうの流れをくむ。稽古堂は日本初の民間学校だったと伝わる。1803年、5代藩主・松平容頌まつだいらかたのぶの時代に、名宰相と称された家老・田中玄宰たなかはるなかの進言により、稽古堂は日新館へと発展した。当時の校舎は会津若松市内にあったが、1868年に勃発した戊辰ぼしん戦争により焼失する。現在、校舎は郊外に忠実に再現されている。

    日新館南門。人材育成を担った藩校として多様な学問と武芸を教授した

    日新館は敷地面積約8000坪、建物面積約1500坪からなる。藩校としては日本最大級だ。会津藩士の子は10歳になると入学する。常時約1000人の生徒が文武を学んだと伝わる。白虎隊びゃっこたいもここで学んだ。

    日新館の南門をくぐると、正門に当たる戟門げきもんが現れる。武装した衛兵が立っていた戟門には、「金聲玉振きんせいぎょくしん」と書かれた扁額へんがくが掲げられている。儒学の始祖である孔子こうしを讃える四字熟語だ。才知と人徳が備わり大成することを意味する。日新館は儒学を教育の基礎とした。
    戟門をはじめ建物の屋根には、霊獣である鬼龍子きりゅうしが鎮座する。中国や朝鮮の建築物に付けられる飾りだ。火よけや魔よけの役割を持つ。武士の質実剛健な精神にのっとった簡素な建物群の随所に、孔子への畏敬いけいの念が表れている。

    上/戟門。武装した衛兵が立ち、日新館を守っていたという
    左下/戟門には孔子を讃える言葉「金聲玉振」が掲げられている
    右下/火よけや魔よけの霊獣である鬼龍子が建物を守る
    左/中央は大成殿。右側に講釈所、左側に礼式方が建つ
    右/大成殿にまつられる孔子。理想の人間の姿として崇められる

    戟門をくぐると、正面に孔子をまつる大成殿たいせいでんが見えてくる。右側には講釈所こうしゃくじょと呼ばれる大学、左側には礼儀作法を教える礼式方れいしきかたが建つ。

    学習の基礎となる素読は、論語などを教科書に行われた

    日新館の教育は日本トップレベルだったという。学問の基本は儒教の教えを体系化した朱子学だ。入学後、素読所で論語をはじめとする中国の古典を学び、成績優秀者は大学への進級を許された。大学では高名な儒学者の講義を受け、討論も行われた。大学を成績優秀で修了した者は、幕府直轄の教育機関への入学や全国遊学が許された。

    武術は弓術、馬術、槍術、剣術を必須科目とし、砲術、柔術、居合術、水練の教育も施された。敷地内には、各種武道場や馬場、日本最古のプールとされる水練水馬池すいれんすいばいけを備え、藩士の子弟は文武両道の心身の鍛錬に勤しんだ。専門科目には数学や医学、神道、和歌、天文学があった。当時日本に2つしかなかった天文台の1つは日新館にあった。

    上/必須科目の弓術を鍛錬する弓道場。背後に磐梯山が遠望できる
    左下/鉄砲による武芸も重要な科目だった
    右下/水練水馬池は日本最古のプールと伝わる。甲冑を着けての水練だった
    日新館に掲げられる「會津藩幼年者什の掟」。会津藩士の子弟は6歳から教え込まれる

    「ならぬことはならぬ」は会津の厳格な教育理念を示す。会津藩士の子弟が幼少時に教え込まれる基礎の心得「じゅうおきて」の締めの一文だ。日新館では各所に什の掟が掲げられている。
    什とは地区ごとに定められた子弟のグループを指す。6歳から9歳までの子弟が什に所属し、勉強も遊びも一緒に行った。什の掟は什のルールを明文化したものだ。武士にふさわしい人間となる振る舞いを幼少期から叩き込まれ、日新館で高度な教養と武芸を身に付けていた。

    会津若松市街には、白壁に赤瓦が映える鶴ヶ城つるがじょうがある。織田信長おだのぶながの寵臣だった蒲生氏郷がもううじさとは、1592年に黒川城の改築と城下町の建設を開始した。信長の天下統一を引き継いだ豊臣秀吉とよとみひでよしに仕え、功績が認められた氏郷には、会津42万石が与えられた。1593年、氏郷は町の名を黒川から若松に改称し、城の名を鶴ヶ城とした。

    戊辰戦争の激戦地としても知られる鶴ヶ城。国内唯一の赤瓦の城だ

    鶴ヶ城の高石垣や天守台の石垣は、東日本トップクラスの高さを誇る。蒲生氏郷の時代に築かれた。天守閣地下1階の塩蔵しおぐらでは、天守台の石垣の内側も間近に確認できる。自然石をほとんど加工せずそのまま積み上げた野面積のづらづみの石垣だ。
    赤瓦が葺かれた天守閣は、現在は鶴ヶ城だけだ。築城当時は黒瓦だったが、保科正之の命で、低温と積雪に耐えられるようにと鉄分を多く含む赤瓦が開発された。赤瓦は奥州一円に普及していったという。

    左上/高石垣は約30mもある。入城する人を威圧するかのようだ
    右上/天守閣地下1階では、立派な野面積みの石垣を身近に観賞できる
    左下/保科正之の命で開発された赤瓦。低温や積雪に耐久性がある
    右下/天守閣内部は、会津の歴史をひもとく郷土博物館となっている

    この記事は、読者登録をすることで続きをご覧いただけます。
    残り2541文字 / 全文4965文字

    続きを読むには

    読者登録

    登録済みの方はこちら

    ログイン

    偉人の軌跡をめぐる旅 バックナンバーBack Number