リーダーたちの羅針盤

「父の会社を存続させたい」
その一心で赤字企業を再建

日本電鍍工業株式会社
伊藤 麻美代表取締役

"私がやるしかない"と、伊藤麻美代表取締役は未経験でめっき事業を継いだ。原材料・物価高、賃上げ対応、円安...。押し寄せる課題に直面する製造業で、社員と共に日本のものづくりを守り続ける。

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この記事のポイント

  • 貴金属の表面処理を手がける会社、日本電鍍工業の伊藤麻美代表取締役
  • 父親の会社を未経験で引き継ぎ、赤字企業を再建した
  • 多品種変量生産へ転換し、製造業の魅力を伝える

日本電鍍工業は、金・銀・プラチナめっき(鍍金)など貴金属の表面処理を手がける会社で、1958年に父・伊藤光雄(故人)が埼玉県川口市に創業しました。めっき液を独自に開発する技術力や、経験を積んだ職人の技が高く評価され、多くの一流時計メーカーからめっき加工を受注。年3回、賞与を出すなど業績は順調で、「就職するなら大企業より日本電鍍工業」と言われたこともあったほどです。

バブルの崩壊が始まった91年頃は、時計メーカーの生産拠点が続々と海外に移転し、国内では産業の空洞化が進んでいました。父は経営にゆとりがあるうちに、売り上げの多くを時計のめっき事業に頼る「一業種依存」体質を変えようと準備を進めていたところ、病に倒れ、志半ばのままこの世を去りました。父が亡くなったことで強いリーダーシップに欠けてしまい、見誤った方向に進んでいきました。

10億円の借金を抱えて

前処理から仕上げまで、めっき工程のメインを担う作業室。すべて手作業で行うことで、多品種変量が可能になる

父の後を継いだ人たちは、産業構造の変化をなかなか受け入れられずにいました。新規事業に投資することなく、必要のない時計のめっき工場を新たに建設するなど、放漫経営を10年以上も続けていました。その結果優良企業だったのが、10億円以上の負債を抱える赤字会社に転落してしまったのです。

その頃私は、8年間身を置いたラジオ・TV業界を離れ、宝石鑑定士・鑑別士の資格を取るためにカリフォルニアの宝石学校に留学中でした。創業者の娘に生まれましたが、家業とはまったく無縁の少女時代を過ごし、父から「家業を継いでほしい」と言われたこともない。むしろ、「今しかできない道に進めばいい」と言って、私が好きな仕事に就くことを常に後押ししてくれました。

ですから日本から「会社がかなり危ない。会社名義になっている実家も売却になりそうだ」という連絡を受けたときも、いったん日本には帰るけれど、状況が落ち着いたら米国に戻って宝飾ブランドへの就職を進めようと考えていました。会社は生き物であり、業況は良いときも悪いときもある。あの父が築いた会社が倒産するはずがない、という思いもありました。

日本に戻ってみると、会社はまさに瀕死ひんしの状態でした。かつては何十億円もの資産を所有していた優良企業が、大変な借金を背負い、「いつ倒産してもおかしくない」といわれている。私は経営にもめっき事業についてもまったくの素人で、きっと有能な経営のプロが現れて会社を立て直してくれるだろうと、当初はかなり楽観的に考えていました。しかし、当時の日本電鍍工業の財務内容は手を出すには危険すぎる状況で、自分が引き受けると名乗り出てくれる人は最後まで現れませんでした。

社員の人生を守りたい

日本に帰って数カ月がたち、会議で会社に何度も足を運ぶうちに、社員と接する機会も増えてきました。彼らにも人生があり、守るべき大切な家族がいる。会社が倒産してしまったら、家族の人生まで狂わせてしまうかもしれない。今まで私が好きな道を歩んでこられたのは、彼らが頑張ってくれたおかげだ。誰かに頼るのではなく、今度は私が一生懸命やって恩返しをしたいと考えるようになったのです。同時に、父が手塩にかけて育てた会社をつぶしたくない、何とか再生させたいという願いもありました。

私がやるしかない、そう腹をくくったら不思議と力が湧いてきました。引き継いでまずは、社内に漂うよどんだ空気を変えていこう。そこで、毎朝、社員全員にあいさつをして、顔と名前を覚えることから始めました。

父を慕っていた社員から「オーナーにはお世話になった、今度は私たちが力になります」と温かい言葉をもらう一方、あいさつをしても無視する人もいました。当時、社員の平均年齢は59歳で、社長の私は32歳でした。年下で、女性で、経営の経験がまったくない人間を社長として受け入れがたかったのでしょう。取引先や銀行の担当者にも、同じように軽んじられていると感じたことはありました。だからといって、周囲の態度に腹を立てる暇は私にはありません。大事なのは業績との闘いであり、赤字からの脱却というミッションです。今振り返ると、いつ寝たのかも思い出せないくらい、自分のすべてを会社に注ぎ込む日々でした。

社員の意識を改革

研究室では、若手社員たちが新たな取り組みや開発案件への試作開発などを行う。自社開発のめっき液を中心に、約50種類のめっき液を使って、取引先のニーズにきめ細かに対応する

人員を削減すれば一時的には赤字を減らせます。しかし、それは単なる数字いじりであって、根本的な解決策とはいえません。また、安易にリストラをすれば、社員のモチベーションをそぐことになります。大事なのは黒字経営への転換であり、それには全員で危機意識を共有することが必要です。そこで赤字や借り入れの金額なども含めて、できる限り正直に業績を開示。当時は材料費率が60%を超えるような利益が薄い仕事も多く、社員が自ら材料費率や経費の見直しに取り組むきっかけになったと思います。

同時に新規開拓の場を広げることにも注力しました。私が社長に就任した2000年当時はITバブルの影響で、めっき業務の主流は時計から携帯電話やパソコン、デジカメに移っていました。その分野にはすでに多くの企業が参入済みで、出遅れたわが社が食い込む余地はありません。そこで、当時はまだ開設している企業が少なかったホームページを立ち上げ、わが社の技術力を広くアピールしようと考えました。

予算がないのでホームページは社内で手づくり、作業を行うのは通常の業務が終わった後です。それでも、7人の社員が「制作を手伝いたい」と、自ら申し出てくれました。かたくなに変化を嫌い、時計にこだわり続ける社員が少なくない中で、「一緒に会社を変えていこうという仲間がやっとできた」と、うれしく感じたのを覚えています。

このホームページを通じて、新規の医療機器メーカーから注文が入りました。「他のめっき会社に問い合わせたが、技術的に難しいと断られた」というのです。発注内容を社員に相談してみると、やはり「できない」という答えが返ってきます。しかし、私は直感的に、「この内容で受注できたら、会社の新しい未来が必ず見えてくる」と感じました。そこで、「うちの技術があれば解決策が見つかるはず。とにかくやってみよう」と説得を続けると、「社長がそこまで言うなら...」と課題に取り組む社員が出てきたのです。

結果として、私たちはこの難しい注文に応えて、製品を完成させました。それ以降、小さな商談会にも積極的に参加。成約にならなくても、「こんな見積もりの依頼があった」と言葉で伝えることを繰り返すうちに、社員の意識が変化していると感じられるようになったのです。

社長就任の3年後には単年度黒字化にも成功しました。業績が安定した今も、毎日の朝礼で情報を共有し、問題があれば必ずその場で解決策を提示するのをルーティンにしています。動きの早さもうちの強みであると考えるからです。

社員たちが私を認めてくれたと実感するうれしい出来事もありました。社長として働き始めた翌年、私に内緒で誕生日パーティーを計画してくれたのです。花束やプレゼントにかかるお金は彼らのおこづかいを集めたもの。仕事場では絶対に涙を見せないと決めていましたが、このときばかりは感動のあまり、涙が止まりませんでした。

多品種変量生産への転換

この20年間で、日本電鍍工業は楽器から医療機具、工業用製品、筆記具、装飾品まで、多岐にわたる分野の表面処理を行う企業へと生まれ変わりました。取引先は3000社を超えています。一点ものから量産品まで、クライアントのニーズに合わせた多品種変量の注文にフレキシブルな対応ができる、そのための開発力とマンパワーを備えていることは、わが社のアピールポイントです。

今から50年以上も前に、父は「社員教育が会社の未来をつくる」と考え、先進の技術や異なる価値観を学ばせようと多くの人材を海外に送り出しました。経済状況もあり父の時代と同じようにはいきませんが、海外の展示会に参加したり、工場視察に行ったりするときは複数の社員を参加させています。世界の動きを肌身で感じ、考え、自らを成長させるきっかけにしてほしいからです。いつか、自分が得たものを会社や社会に還元してくれたらうれしいです。

製造業の魅力をどう伝えるか

近年、円安による価格の急騰や戦争の影響もあり、材料の供給がかなり不安定になっています。時代と共に価値観が変化して、製造業への就職を希望する若者が激減するなど、業界を取り巻く状況は決して甘いものではありません。

こうした現状に対して、今、私たちが実際に行動できるのは、製造業の魅力についてより多くの人に知ってもらうことです。そこで年1回、社員の子どもや両親を工場に招いて、家族が現場で働く姿を見てもらう見学会を実施しています。新型コロナの影響で一時中断していましたが、近隣の学校に出向いてめっき加工を施す工程を子どもたちの前で実演して見せることも再開したいと考えています。

コミュニティーレベルの活動ではあるものの、自分の両親や兄弟、いろいろな世代の大人たちが製造の現場で働く姿を見て、「かっこいい!」「めっきって魔法みたいで楽しい」と思ってほしい。いずれ就職について考えるときに、製造業が選択肢に挙がるきっかけになればと期待しています。

私は常日頃、「わが社を、日本のめっき企業の中で、一番高いお給料が払える会社にしたい」と言っています。家を建てたい、子どもを留学させたいと社員が望んだら、その夢をかなえるチャンスをつくるのが、社長である私の仕事だからです。そして、夢をかなえる力がある企業には、必要とする人材が集まると信じています。

とはいえ利益は結果であって、もうけることが最優先ではありません。社員にも常に、「利益とはお客さまの評価であり、それが私たちの存在意義になる。変化に対応できる自分を築いて、どんな状況でもお客さまのニーズに応えられれば、利益はついてくる」と伝えています。

今、厳しい経営環境が続く中で、やむなく廃業や倒産を決意する中小企業が増えています。「誰かがその技術を受け継がないと、いずれ大事なものが海外に流出して国益を損なうことになる。自分たちがその受け皿になれないだろうか」と、同世代の経営者たちと話し合うこともあります。

それには、技術というバトンを受け取る若い人材を1人でも多く育てること。たとえ業態が変わっても、100年、200年と続く組織を築くことが必要です。そのときは、私は社長ではないと思いますが(笑)。100年続く企業づくりを今後の目標の1つにして頑張りたいです。

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「社員のやる気や
夢をかなえる
チャンスをつくるのが
私の仕事」

伊藤 麻美

上智大学卒業後FMラジオ・TVなどのパーソナリティーを約8年経験し、1998年に米国カリフォルニア州に留学。宝石の鑑定士・鑑別士の勉強をした後、帰国。2000年3月、父の創業した事業を引き継ぎ、日本電鍍工業の代表取締役に就任。1児の母。

企業情報

社名
日本電鍍工業株式会社
事業内容
電気めっき加工、無電解めっき加工、無電解ニッケルめっき、アルマイト、電着塗装、チタン材の陽極酸化、ブラスト処理、イオンプレーティング
本社所在地
埼玉県さいたま市北区日進町1丁目137番地
代表者
伊藤麻美
従業員数
69名(2021年9月現在)