リーダーたちの羅針盤

業績不振、高齢化した町工場
若手集まる
「辞めない会社」へ

ダイヤ精機株式会社
諏訪 貴子代表取締役社長

20年前、父の急逝により、思いがけずダイヤ精機を引き継ぐことになった諏訪貴子社長。会社存続のため、若手の採用と働きやすい環境づくりに注力していった結果かつては高齢化が進んでいたが、いまや20~30代の社員が半数以上を占める。

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この記事のポイント

  • 自動車メーカー精密部品などを設計・製作する、ダイヤ精機の諏訪貴子社長
  • 父である先代社長の死後、ダイヤ精機を引き継ぎ、経営再建に成功
  • ミクロン単位の技術を継承し、世界のニッチトップを目指す

ダイヤ精機は、自動車メーカーや部品メーカー向けの金型やマスターゲージの設計・製作を行っています。超精密加工を得意とし、職人による1ミクロン単位の研磨技術が高い評価を受けています。

本社と工場は東京・大田区にあります。従業員23人のいわゆる「町工場」ですが、高い技術力と対応力が評価され業績は好調です。人手不足に悩む町工場が多い中、当社では従業員の半数以上を20~30代の若手が占めています。熟練職人の技術力が次世代に引き継がれている点が強みです。退職率も低く、社長就任当初から目指していた「社員が辞めない会社」が実現しつつあることに喜びを感じています。

とはいえ、私が社長に就任した当初は業績不振で借金も膨らみ、職人の高齢化も進んでいました。危機的状況を脱したのは、経営経験がないからこそ多様な改革に恐れずチャレンジでき、それに社員がついて来てくれたからだと思っています。

父の急逝で社長に

ダイヤ精機が目指す職人は、特定の作業に限定せず、多様な作業において高い技術を発揮できるスペシャリストだ

社長に就任したのは、今からちょうど20年前の2004年でした。創業社長である父の急逝を受け、突然、経営を引き継ぐことになりました。

私は大学工学部卒業後、大手メーカーにエンジニアとして入社し、約2年間製造現場を経験しました。退職後に結婚・出産し、父が亡くなったときは専業主婦でした。

実は専業主婦になる前、短期間ながら二度ほど、ダイヤ精機で働いたことがあります。父から「大手企業での経験を生かして現状を改善する策を見つけてほしい」と言われ総務として入社しました。経営状況を分析したところ、バブル崩壊後に売り上げが半減し借金もかなり膨らんだ状況でした。一方で、社員数はバブル時のままで、利益を大きく圧迫していた。このままでは経営破綻は時間の問題と考え、不採算部門だった設計部門と社長秘書、運転手のリストラを提案しました。ですが、「明日から来なくていい」と逆に私がクビに。2年後、もう一度手伝ってほしいと言われ、改めて会社の状況を分析したものの何も変わっていない。前回と同じ提案をしたところ二度目のクビを宣告されました。

その4年後、父の急逝で周りに乞われて社長に就いたものの、自分が社長になるなんて全く予想しておらず、まさに青天のへきれきでした。経営に関わった経験もない。自分に務まるのか。不安ばかりだったのを覚えています。

ただ、これまで何度も分析した通り、ダイヤ精機が抱える経営課題は明らかでした。リストラなしに経営改善はあり得ない。就任後すぐ、リストラを敢行しました。

当然ながら、現場は大反発でした。就任早々、社員全員を敵に回した形になりました。一方、彼らはこのとき初めて、会社の経営状況がいかに深刻であるかを知ることになります。「ここでバラバラになってしまったら、会社は終わりだ。この危機を乗り切るため、経営者として課題解決に全力を注ぐから、みんなも腹をくくってほしい」。そんな思いを込めて、全社員に「底力を見せてほしい」と伝えました。

すぐに着手したのが「3年の改革」です。人は切羽詰まったときに一致団結し、力を発揮します。早く成果を挙げ、達成感を得てもらいたい。スピード感を持って改革に挑む必要がありました。

1年目は「意識改革の年」としました。これまで研修はOJTが中心でしたが、初めて座学による研修を取り入れました。その中で徹底したのが、製造業の基本であり、私自身も前職でたたき込まれた5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)です。整理整頓の意味からじっくり教え、すぐに現場に戻っているもの、いらないものに仕分けをしてもらいました。4トントラックいっぱいの不要部品や工具を廃棄しました。その結果、必要なものがすぐに取り出せるようになりました。通路も広くなり、作業効率向上を全員が実感しました。PDCAを回す重要性も理解してもらい、皆の意識が徐々に変わっていくのが分かりました。

同時期に自らが現場に入り、会社の悪口を私にぶつけてもらう「悪口会議」を実施しました。改善提案をしてほしいけれど、そのまま伝えると身構えてなかなか意見が出てこない。それを受けて命名から思い切り、実施した会議でした。しかし、意外にも挙がってきた声は悪口ではなく「工場の窓ガラスが割れているから直してほしい」「ここにチェーンブロックを入れたほうが作業効率は良くなる」「製品を床に置きたくないから台車があったほうがいい」などの、まさに改善提案の数々でした。それら一つひとつに対応することで、社員全員に「自分たちの意見が通る」と実感してもらい、「自分たちがこの会社を変えていく」意識を持ってもらえました。

2年目は「チャレンジの年」と銘打ち、1年を通して新しいものを積極的に取り入れました。古い製造設備を自動制御ができる設備に入れ替え、生産管理システムも変更しました。長年のやり方を変えることに抵抗感を持つ職人が多かったのも事実です。「簡単な作業は機械に任せ、手作業が必要な部分に専念できるから、楽になるうえ精度が上げられる」と職人目線でメリットを伝え、皆を巻き込みました。

3年目は「維持・継続・発展」です。これまでやったことを振り返りながら、受注から納品までの業務フローを統一し標準化することで、安定化と効率化を図りました。

この3年の間は、新たなことに着手するたびに現場から反発され、文句も言われ続けました。しかし、その都度向き合い、腹を割った話し合いを徹底することで、一体感を維持しました。初めのころはつらくて、夜ベッドの中で涙することもありました。そんなときに出合ったシェイクスピアの名言「世の中には幸も不幸もない。考え方次第だ」に救われました。「職人はみんな技術力があるから他の会社に行くこともできる。それでもうちにいてくれるのは、本気で会社のことを考えてくれているからだ。私は普通の人にはできない貴重な体験をさせてもらっている。なんてラッキーなんだ......」と無理なく発想を転換できたんです。幸か不幸かは自分が決めるのだと気づいた日から、ネガティブな考えは一切持たなくなりました。

採用を未経験者OKに

「3年の改革」を進めながら、課題の一つだった高齢化対策も検討しました。1ミクロン単位の精度は最終的には職人の手作業で実現しています。職人の高齢化が進み、技術を継承して会社を存続、成長させるには若手社員の採用が必須との結論に至りました。

若手確保のために踏み切ったのが未経験者採用です。それまでは即戦力になり得る経験者のみにターゲットを絞っていました。募集をかけても応募が集まらず、採用できても長続きしませんでした。そこで、若手に幅広く目を向けてもらうべく、思い切ってその条件を取っ払ったのです。「教育に時間はかかるが、一から技術を覚えてもらえば会社に定着する。"ダイヤ精機製の社員"として長く活躍してくれるのではないか......」との思いがありました。

若手向けにホームページも作り直し、採用パンフレットを作成したほか、合同説明会に参加してロボットを動かしてものづくりに興味のある人の目を引くことに挑戦しました。

面接では、私と取締役と工場長で、まるでコントのようなやり取りを実施しました。あいさつ代わりに皆で一芸を披露して、最後に応募者本人に「はい、どうぞー!」と振る(笑)。当社は職人同士の関係性が深く、家族のような会社です。このような宴会ノリもOKな人であれば、当社の社風にも合い、定着が見込めると考えました。一芸の振りも決してふざけているわけではなく、瞬発力を見極めるためのものです。当社の業務では日常的に機械を扱います。危険を察知したら即反応できる力が不可欠です。一芸を振られ頭が真っ白になってしまう人よりも、「準備していませんでした」「次までに練習してきます」でも何でもいいから反応してくれる人のほうが、モノづくりの現場に向いていると考えました。

新入社員と交換日記

人材育成の軸は社員とのコミュニケーションという諏訪社長。時間があれば現場に顔を出すようにしている

こうして、3人の若手採用に成功しました。中には高校を卒業したばかりの10代もいました。大切なのは定着です。この3人に長く働いてもらうべく、あらゆる手を尽くしました。

その一つが「交換日記」です。未経験の若手がいきなり現場に入り、ベテランに囲まれながら仕事を覚えるのは不安だと思います。萎縮してしまうときもあるでしょう。日々の不安をため込まず、吐き出してもらおう。「何でもいいから気持ちを書いて」とノートを渡し、書いてくれた日記に対して毎回返事を書きました。たとえ不安が書かれていなくても、ストレスがたまると文字が小さくなったり、文字量が減ったりしてきます。そういう変化に気づいたらすぐに声を掛け、話を聴くようにしました。

良いことが書かれていたら、赤ペンでハナマルを付けました。ハナマルっていくつになってもうれしいものですよね。このほか、親御さんに会社を見てもらうファミリーデーや、こまめな1on1ミーティングなども実施。こうして不安の芽をつぶし、モチベーションを高めることを徹底しました。

この若手3人に採用PRや合同説明会のブースづくりを任せることで、さらに若い人が集まるようになりました。不安や不満も含め、意見を聴く姿勢と任せる社風が支持され、若手の定着につながりました。最初に入社してくれた若手3人は、今も当社で活躍しています。

若手の採用・育成に注力する一方で、定年を70歳まで延長しました。それを超えても働く意欲のある人には「社内外注」の形で残ってもらっています。現在の最高齢は78歳、若手と超ベテランが共に働く環境の中で、着実に技術継承が進んでいます。

世界のニッチトップを目指す

ダイヤ精機の今後の目標は、「世界のニッチトップ」です。研磨領域で技術力を持つ町工場はそう多くありません。1ミクロン単位の成果を出せる技術者は当社の職人を含め限られた数しかいません。その中で、さらに高い精度を、確実に実現していけるよう、皆で技術力を磨き続けたいと考えています。

業務効率化や生産性の向上のためには投資しますが、最新の機械は導入していません。高性能な機械を入れれば平均的な精度は上がるでしょう。ただその分、職人の「ミクロン単位の勘」が鈍ってしまう。また、設備投資分を売価に反映せざるを得ず、受注が減る可能性を回避したいのです。

当社のメインクライアントである自動車業界は、電気自動車へのシフトやMaaS(Mobility as a Service)への取り組みが進んでいます。100年に一度の変革期ともいわれています。その変化についていけるよう人の力を高め、高い技術を追求し続けるのがこれからの私の仕事だと思っています。

人材確保は永遠のテーマです。今では私のDNAを若手が引き継いで、採用活動自体は担当社員に任せていますが、入社後の交換日記や1on1ミーティングは引き続き私自身が行っています。経営情報はいいこと、悪いことすべてをオープンにする。その前提があって社員が意見やアイデアを自由に言える雰囲気が醸成されます。創業当初から、明るくアットホームな社風が自慢でした。自主的に行動できる社員が増えた今、さらに活気が高まっています。

振り返れば試行錯誤の20年でした。今では優良企業といわれ全国の企業が視察に来るほどになりましたが、それでも父は超えられないと感じます。会社を立ち上げ、経営基盤を作り上げるのは本当に大変です。父が築いたこの会社の技術を守りつつ、これからも働きやすい環境を追求し、何より「社員の笑顔を作る」に注力し続けたいです。

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技術を継承し、
若手主体の
活気ある町工場へ」

諏訪 貴子

東京都生まれ。成蹊大学工学部卒業後、ユニシアジェックス(現・日立Astemo)でエンジニアとして働く。2004年、父の逝去に伴いダイヤ精機社長に就任。新しい社風を構築し、家事・育児と経営を両立させる女性経営者として活躍。日経BP社「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」大賞を受賞。ニュースZEROや日曜討論等のメディアに多数出演するほか、講演会も多数。著書『町工場の星-「人が辞めない最高の職人集団」全員参加経営の秘密』(日経BP)が話題に。

企業情報

社名
ダイヤ精機株式会社
事業内容
自動車メーカーおよび部品メーカー向け精密部品・治工具、設計製作
本社所在地
東京都大田区千鳥2-40-15
代表者
諏訪貴子
従業員数
23人(2024年8月現在)
※業務委託3人含む