リーダーたちの羅針盤
異業種の経験を経営に生かし
自分が納得できる酒づくりで世界を目指す
天領盃酒造株式会社
加登 仙一代表取締役
24歳の若さでM&Aによって蔵元を買い取り、自ら蔵元杜氏となって理想の酒づくりを追求する天領盃酒造の加登仙一代表。新ブランド「雅楽代」は全国新酒鑑評会での2年連続の金賞、国内線JALファーストクラスの機内提供酒にも採用されるなどの評価を獲得している。
- リーダーたちの羅針盤
- M&A
- 財務諸表
- 経営譲渡
この記事のポイント
- 24歳でM&Aによる経営権引き継ぎを果たした、天領盃酒造の加登仙一代表取締役
- 酒蔵経営のために、証券会社で企業経営を学ぶ
- 酒質を向上させる設備投資を行い、こだわりの酒づくりで黒字経営を達成
天領盃酒造は1983年に創業した佐渡銘醸という酒蔵が前身です。いち早く近代化、機械化を図ったことで知られた酒蔵ですが、2008年に経営破綻し民事再生法で天領盃酒造に切り替わりました。しかし、その後も中の体制は変わらず、10年間赤字が続いていたのです。後継者不在で廃業が検討されていた18年、私が24歳のときにM&Aで経営権を引き継ぎました。今は蔵元杜氏として酒造りを行っています。
私は千葉県成田市の出身で、親は自営業をしていますが、日本酒とは無縁でした。そんな私がお酒に興味を持ったのは、13年、大学2年時のスイス留学がきっかけです。大学のサークルでブレイクダンスをしていた私は、現地でストリートパフォーマンスをしていたダンスチームに声を掛けてメンバーに入れてもらいました。後に知ったのですが彼らはヨーロッパ中から集まってきている多国籍なメンバーで、スイス代表として世界大会で入賞したほどの実力チームでした。
あるとき自国の文化や芸術、酒について語り合っていました。日本酒について聞かれたものの、当時は居酒屋チェーンの安い日本酒しか飲んだことがなく、おいしいと思ったことがありませんでした。どんなつくり方をするのか、どのくらいメーカーがあるのか、質問に何一つ答えられなかった。そのとき「英語やドイツ語を話せるのが国際人ではない。自分の国のことをしっかり外国の人にも伝えられるのが真の国際人なんじゃないか」と言われ胸に刺さりました。
この出来事をきっかけに日本文化に目を向け、一番興味を持ったのが日本酒でした。日本酒は「糖化」と「発酵」が同時に行われる、世界でも類を見ない醸造法を持つ。何千という銘柄があって、それぞれ独自性を持って酒づくりを行っている。これまで知らなかった世界が広がっていました。帰国して日本酒専門居酒屋に行って飲んでみて、さらに自分の中での日本酒の概念が変わりました。
どうしてこのお酒の魅力を彼らに語れなかったのだろう。こんなにおいしいのになぜ自分の周りの若い人たちは誰も日本酒を飲まないのだろう。悔しさが湧き起こりました。
酒蔵経営を目指し証券会社へ
実家の事業を継ぐことに反発した時期もあったものの、大学生になるといずれ自分も経営者になろうと思うようになりました。ただ、既存のものを継ぐのではなくて自分で新しいことはやりたいと常に思っていました。日本酒に関わる仕事がしたい、日本酒をもっと広めたいという思いは、自然と「酒蔵を経営したい」思いへとつながっていきました。
調べてみると日本酒業界は、国内出荷量が1973年をピークに下がり続けていました。全盛期の3分の1以下に減っている斜陽産業で、酒税法の規定により日本酒製造免許の新規交付は60年以上なく、新規参入は実質不可能と分かりました。
大学生の私は、まず証券会社に就職することにしました。いつか何らかの形で酒づくりをするときに会社をすぐに興せるよう、金融や財務に対する知識を身に付けたいと思ったからです。証券会社なら優秀な経営者に接する機会もあり、経営や独立について学べるのも魅力でした。
2016年、入社して営業先に行くたびに、日本酒をつくる会社をいつか起業したいと思っていることや経営者の在り方を勉強したいと思っていることを伝えてきました。入社後1年半ほどしたとき、ある経営者から「酒蔵を経営する話はどうした? 今のままだったら来年も再来年も10年後も20年後も、製造免許が下りないからできないと、同じことを言っているぞ。新たに下りないなら、免許を持っている会社を買えば良い」と言われ衝撃を受けました。
財務諸表からM&Aを決定
「日本酒 M&A」で検索して情報に当たり、まず譲渡価格で絞って全国15件ぐらいの酒蔵をピックアップしました。M&Aの仲介会社に登録してその15件の情報を開示してもらい、そこからさらに絞りました。蔵の構造を確認し、木造の蔵を外しました。会社が売りに出ているのは後継者がいないか、事業が立ちいかなくなったかのいずれかで、大半が後者です。事業がうまくいっていないのであれば、設備投資も建物の管理もできていない可能性が高い。木造は手をつけにくいが、鉄骨であれば骨組みがしっかりしており内外装に手を入れれば何とかなるとの判断です。
数件に絞った時点で、秘密保持契約を結び財務諸表などの情報を開示してもらい、出合ったのが天領盃酒造でした。鉄骨づくりで、財務内容は改善点が圧倒的に多い。ということは、販管費や経費の引き締め幅が十分ある。商品ラインアップも観光土産用の高いお酒(大吟醸と純米大吟醸)と、地元用の本醸造と普通酒だけ。売れ筋である商品ラインアップを整えれば売り上げ増も期待できる。やれることがたくさんあると感じられたのです。
地縁も血縁もない佐渡でしたが、親も「やってみればいい。ただし責任は持てよ」と背中を押してくれました。とはいえ、自分の事業に実家の金は使わないと決めていたので、全て銀行からの借り入れで対応しました。門前払いにも遭いました。何度も事業計画書を書き直して持参しました。最終的には、契約書を結ぶのを前提に天領盃酒造の土地や建物を担保に入れて借りるのをオーナーに了承してもらい、借り入れができました。
18年に、経営譲渡の調印式後、ここから先は事業計画書の机上の数字を実現しなければならない段階に入ると思うと、その数字の大きさに1週間ほどプレッシャーで眠れないほどでした。いざ佐渡に行くと腹が据わりました。もうやるしかない。
黒字転換、酒づくりへ
18年当時、蔵には12人ほどの従業員がいました。私の代表就任に好意的な反応の人は誰一人いませんでした。一番年齢が近い人でも20歳以上年上で、定年間近の人ばかりでした。現場統括の人は、社長はそこに座っていてくれればいいと言うばかりで、会社のことを何も教えてくれない。酒づくりをする人たちも、私が見に行くと作業をやめるといった状況でした。
前オーナーの時代は、長年にわたる多額の経費が経営に影響を与えていたようです。そこで私が経営再建のために最初に手を付けたのは、聖域をつくらずに無駄遣いをカットすることでした。1年目で340万円ほど黒字化しました。少しずつでも黒字になっていけば会社としては徐々に体力がついてくる。次は黒字体制をキープしたまま、自分の目指す酒づくりをして、販路と売り上げ拡大を実現する目標を掲げました。
19年は、広島県にある国の研究機関、酒類総合研究所で2カ月間、泊まり込みで酒づくりの理論を学びました。研修で同期だったのが、全国的にも有名な広島県の酒蔵、相原酒造の5代目相原章吾さんです。年が近かったこともあって意気投合し、相原さんに頼んで仕込みの現場へ1カ月間研修に行かせてもらいました。
2つの研修を通じて、酒づくりの知識や技術が学べただけでなく、天領盃酒造の問題点も明らかになりました。それまでの天領盃酒造は安い酒を効率的に大量生産するスタイルでした。それでもうかった時期はよかったかもしれませんが、米から酒になれば良いという酒づくりはもはや時代遅れといえました。
19年佐渡に戻って自分の酒づくりをスタートさせ、少量生産にはなるが手のかかる仕組みに変えました。ボタンを押せば機械がやってくれる酒づくりから、全てが人による労働に転換したことで、3人いた蔵人はみな辞めました。しかし、一切引き留めはしませんでした。「いい酒を造りたい」その一点だけを考えていました。そこが合致しないなら仕方がない。幸運にも誰かが辞めると誰かが入ってくる状況が続きました。酒に対する熱量も意欲もある人たちが増えてきた。18年M&Aをした当時にいた従業員のほとんどは入れ替わり、今は平均年齢が30代半ばの会社になりました。
この頃リリースしたのが新ブランド「雅楽代」と「THE REBIRTH」です。以降、蔵元杜氏として酒づくりを行いながら、酒質を向上させる大幅な設備投資も行ってきました。導入する設備は、効率化や省力化ではなく品質向上のためのものです。100点満点の酒をつくっても、貯蔵する環境が整っていなければ劣化してしまう。酒の品質をいかに下げないようにするか、まず酒造りの後ろの工程から設備を順次新しくしました。M&A前の設備で今も使っているものは1つもありません。蔵の改革で年々酒の質が上がっていくのが実感でき、100m走に例えれば走るたびに記録が上がる感覚を得ました。
新しい新潟淡麗をつくる
酒質が上がり一定の評価を得られるようになったものの、23年ごろから私の中でモヤモヤが生まれていました。今まで酒質を良くすることだけを考えてやってきて、全国トップレベルの酒蔵が参加するイベントにも声をかけていただき、同じ場に立って気づいたのです。私はお客さんに酒の味について語るばかりで、他の蔵元さんたちはそうではない。代々受け継がれてきた家業だから、生まれ育った土地、水、酒づくりの方法、酒蔵で小さい頃遊んでいたことまで話が尽きない。思い入れが全然違うのです。
私がM&Aをしたのは「再生できそうだから」です。佐渡や天領盃酒造に対する思い入れが何もなかった私が、彼らの熱量にかなうわけがない。悩み続けた2年間でした。哲学がなければ、いつか飽きられるときが来る。そうなってからでは挽回できない。
そう思い悩み、自分が好きな味わいと新潟佐渡をどうリンクさせるかを考え続けた結果、やりたいことがようやく見えてきました。「新しい新潟淡麗をつくる」ことです。フレッシュな段階で端麗のきれいな味わいをつくり、厳密に冷蔵管理したものを届ける。佐渡の島としての成り立ちや歴史、天領盃の仕込み水である金北山の伏流水、トキの保護活動による酒米をはじめ農産物が減農薬である点など、調べていくと佐渡の気候風土やそこで生まれた原料は、私のつくりたい酒の理想像と見事にフィットしてきたのです。
モヤモヤが晴れたあとのイベントでは、自分でも驚くほどしゃべる量が増えました。以前、周囲の蔵元たちはなぜこんなに語れるのだろうと思っていたのに、伝えたいことがあるというのはこういうことかと分かりました。
今は熱量と意欲の高い若い蔵人たちに任せられることも増え、酒づくりの体制も味わいも、多様な可能性にチャレンジできるようになってきました。若手蔵人に酒質設計から仕込み、アルコール度数の決定や瓶詰、火入れまで任せる試験醸造も行っています。葛藤の時期を経て、ここからは全国さらには世界に向けて飛躍する年にしていきたいと思っています。
この記事は、読者登録をすることで続きをご覧いただけます。
残り5文字 / 全文5029文字
「伝えたいことがある、
思いのこもった
酒づくりで世界へ」
加登 仙一
1993年、千葉県生まれ。法政大学国際文化学部在学中にスイスのザンクトガレン大学留学。2016年大学卒業後、証券会社へ入社。自身で資金を調達し、18年新潟県佐渡市の天領盃酒造株式会社の経営権を取得、代表取締役に就任。酒造りについては、清酒製造の中~上級者を対象とする広島・酒類総合研究所で研修を受け、蔵元杜氏となる。19年には今や人気銘柄となっている「雅楽代」を立ち上げた。趣味はブレイクダンスとテニス。
企業情報
- 社名
- 天領盃酒造株式会社
- 事業内容
- 酒および食品販売
- 本社所在地
- 新潟県佐渡市加茂歌代458
- 代表者
- 加登仙一
- 従業員数
- 14名(2024年9月現在)