リーダーたちの羅針盤

「人のため、地域のため」が原動力
家業を継ぎ、赤字からのV字回復を実現

有限会社岡埜本店
榊 萌美取締役副社長

1995年、埼玉県にある創業138年の和菓子店「五穀祭菓をかの(岡埜本店)」の次女として生まれる。母の入院をきっかけに家業を継ぐことを決意。大学中退後、アパレル勤務を経て20歳で「五穀祭菓をかの」に入社。溶けないアイス「葛きゃんでぃ」がメディアに取り上げられ大ヒット。2019年、24歳で取締役副社長に就任し、「五穀祭菓をかの」の6代目女将を襲名。赤字だった会社の経営改善に取り組み、V字回復を果たす。23年市議会議員選挙に当選し、政治家としてのキャリアもスタート。

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この記事のポイント

  • 埼玉県・桶川の老舗和菓子店「五穀祭菓をかの」の6代目女将、榊萌美取締役副社長
  • 経営者との交流で学んだことを実践し、10年連続赤字経営だった会社をV字回復へ
  • 人のため、地域のために活動し、一人でも多くの人を笑顔にしていく

138年続く埼玉県・桶川の老舗和菓子店「五穀祭菓をかの」。副社長であり6代目女将の榊萌美さんは、大学を中退して家業を継ぐと決意し、経営不振にあった同社を様々なアイデアや工夫で立て直した。
原動力になったのは「人のため、地域のために役に立ちたい」という思いだった。

JR桶川駅前の商店街に店を構える和菓子店「五穀祭菓をかの(岡埜本店)」は創業1887年、今年で138年を迎える老舗です。

家業に20歳で入社し、現在は6代目の女将として働いています。入社当初、経営状況は非常に厳しく、10年連続赤字という深刻な状態でした。しかし、新商品の開発や情報発信に力を注ぎながら、地道な経営改善を続けた結果、見事にV字回復を果たしました。現在では安定した経営を維持しています。

初めは家業を継ぐとは全く考えていませんでした。経営が厳しいのは知っていましたが、「誰かが何とかするんだろう」とひとごとのように思っていました。そんな私が「をかの」を継ぎ、さらには経営の立て直しまで任された。夢にも思っていませんでした。

知識も経験もゼロからのスタートでした。ここまでやってこられたのは、ひとえに「人の役に立ちたい」「地域に貢献したい」という強い思いからです。桶川の人々の支えがあったからこそ、今の「をかの」があります。

赤字からの復活

父であり、社長である榊信明氏。今も職人として和菓子作りに精を出す

1995年に、この店の次女として私は生まれました。現在、この商店街は少し寂しくなっていますが、私が子どもの頃はパン屋や鮮魚店、青果店が軒を連ね、多くの人が行き交う活気ある場所でした。子どもの私は店番をしながらお客さまと触れ合ったり、近所のお店にお使いに行ったついでにおしゃべりをしたりと、商店街の皆さんにかわいがられながら育ちました。

そんな街や店で育ったにもかかわらず、家業を継ぐ考えは全く頭にありませんでした。ただ、両親が一生懸命お客さまのために働く姿を見て、人のために役立つ仕事をしたいと思うようになり、教師ならその夢を実現できると考えて大学の教育学部に進学しました。

ところが、授業についていけなかったり、教育実習先で教員同士の人間関係の複雑さを目の当たりにしたりして、自分には向いていないと痛感。将来に悩んでいた矢先、母が突然倒れて入院してしまいます。

和菓子作りと経営は父が担っていましたが、本店を切り盛りしていたのは母でした。幸い母の容体は大事には至らなかったものの、病室で両親がこれからお店をどうすべきかを話し合っているのを聞き、初めて「誰かが継がないと、店がなくなってしまう」と気付かされました。

継ぐとしたら私しかいない。でも何も分からない。どだい無理だと思い、この時点でもまだ誰かが何とかしてくれると考えていました。

私の考えが変わるきっかけは、母が倒れて1週間ほどたった頃の出来事でした。同級生の母親に偶然声を掛けられたのです。

「お店、継がないの? 小学校の卒業式で言ってたじゃない」

卒業式のビデオを探して見てみると、本当に「私がお店を継ぎます!」と胸を張って宣言している。全く覚えていなかったので驚きました。

これをきっかけに、私の原点はこの街だと再確認しました。「この街が大好きでこの街の人たちに育ててもらったのに、成長するにつれてすっかり忘れていた。お店がなくなれば、通い続けてくれた地域の人はきっと悲しむだろう。それなら私が継いで、皆の役に立てばよい。人のため、地域のためになるという目的が変わらなければ、実現するための手段は変わってもよいのではないか」そう考え、私は腹を決めました。すぐに両親に「店を継ぐ」と宣言し、大学を辞め、本格的に家業に向き合う道を歩み始めたのです。

社員との関係性を構築

19歳で大学を中退した後、まずは社会人経験を積むため、当時アルバイト先だったアパレル会社に社員として採用してもらい、1年間勤務しました。その後2015年に20歳で岡埜本店に入社しました。

経営が厳しいのは感じていましたが、具体的にどれほど厳しいかは分かっていなかった。入社後、父に「決算書を見せて」と頼んだのですがなかなか見せてもらえない。周囲の反応も冷ややかでした。急に身内が入ってきた故、社内に歓迎ムードはなく、事業の提案をするたびにハレーションが起きました。長年働いているスタッフには、口うるさい存在に映っていたのでしょう。

このままでは、自分が経営を継いでもうまくいかない。危機感を覚えました。そこで副業として、カメラマンやライターの仕事を初めました。今の自分にないスキルを身に付けるためです。その経験をPOPやリリースの作成、新商品の説明やプロモーションに生かしました。すると次第に社内から「この商品はどう説明すればよいか」と質問されるようになってきました。職人や売り場スタッフと少しずつコミュニケーションが深まり、信頼関係が築かれていきました。

24歳の時、副社長に就任し、ようやく父から決算書を見せてもらえました。内容は赤字経営が10年間も続いているという、想像以上に厳しいものでした。ちょうどその頃、経営塾に通い始めていたこともあり、経営分析や事業計画の立案、ターゲット層の明確化などを進め、「会社を立て直そう」と意気込んでいました。そこにコロナ禍が到来。ギフト需要が激減し、売り上げが一気に2~3割落ち込む大打撃を受けました。いやが応でも、様々なことにチャレンジせざるを得ない状況になっていったのです。

経営者から学ぶ

最初に挑戦したのはネット販売です。副業のおかげで私の個人SNSにはある程度フォロワーがいました。ネットショップ開設サービスを使い、試しにいちご大福を販売してみました。SNSで告知すると数日で300個近い注文が入ったのです。大きな手応えを感じました。これを売り上げの柱にしながら、売り上げアップの施策を次々と試しました。

経営塾やSNSで知り合った経営者に会いに行き、「やって良かったこと」「うまくいかなかったこと」を教えてもらいリスト化しました。うまくいかなかったことも、自分の会社には合うかもしれない。そう考え、すべて試してみるようにしました。1カ月で約30人の経営者に会い、リストは100項目以上になりました。試して良ければ継続、合わなければすぐやめる。このサイクルを繰り返しました。

最も手応えを感じたのが、手書きのチラシです。毎晩500~1000枚ほど近隣にポスティングし、これを半年間続けました。その結果、多くの人が店に足を運んでくれるようになりました。

一方で、うまくいかなかった施策もあります。不採算商品の終売です。対象となる商品を洗い出したところ、膨大な数に上り、ロスが多いと判明しました。そこで売れ行きの悪い下位20%の商品を削減しようとしたのですが、強い反発を受けました。職人からしたら、どの商品も思いを込めて作り上げたもので、単純に売れないからやめるやり方は、彼らの努力や情熱へのリスペクトが欠ける提案でした。この時は、現場の気持ちをもっと大切にすべきだと深く反省しました。

SNS戦略でバズる

看板商品の「葛きゃんでぃ」。溶けないだけではなく、日持ちしない葛ゼリーを凍らせ長持ちさせることに成功した

よくメディアで取り上げられ、当社の看板商品となった溶けないアイス「(くず)きゃんでぃ」。実はこれは、私が入社4カ月の時に開発したものです。

当時、17時以降に生菓子を値下げしていたのですが、お客さまがそれを待って買いに来るのを課題に感じていました。葛ゼリーも賞味期限が当日で、値下げ対象商品でした。売れずに廃棄することも多かった。そんな時、子どもの頃に葛ゼリーを凍らせて食べていたのを思い出しました。冷凍にすれば日持ちもする。「アイスにできないか」と葛粉メーカーに相談すると、「できる」と返事をもらえました。早速、試しに夏祭りで販売したところ、2日間で1000本が売れました。確かな手応えを感じ、パッケージデザインも考え、正式に商品として販売を始めました。

しかし、すぐに大ヒットしたというわけではありません。メディアの取材を受けたのはその2年後の17年でした。

初めは、人もお金も足りない中で売り上げをつくるために、メディアに取り上げてもらうべくSNSをフル活用しました。どのSNSに、どんな投稿を、いつ発信するかを綿密に計画しました。ある程度の拡散に成功してフォロワーも増えたタイミングで、メディアプラットフォーム「note」に「埼玉のギャルが大赤字の老舗和菓子屋に入社した話」を投稿しました。これがメディアの目に留まり、少しずつ取材が入り始めました。

「戦略が当たりバズった」と言えば聞こえは良いですが、実際にはこの時期が一番の経営危機でした。注文が急増した一方、原材料を仕入れる現金が足りず、キャッシュフローが回らない状況に陥ってしまったのです。当座の資金を確保するため百貨店でポップアップ店を出し、私も売り場に立ち続けました。睡眠時間もまともに取れず、当時の記憶すらほとんどないほど働きづめでした。

それでも頑張り抜くことができたのは、この店を愛してくれたお客さまのおかげです。「祖父の代から買いに来ている」「子どもの頃、妹をおぶっておやつを買いに来た」「このお店が続いてくれて本当にうれしい」。こうした温かい声を聞くたびに、この地域のため、この店を愛してくれる皆さんのために頑張ろうと奮起しました。私を信じて支え続けてくれた従業員の存在も大きかったです。

地域とお客さまのために、従業員のために絶対に諦めない。この思いを胸に全力で走り続けました。

地域のために市議会議員に

22年にようやく自己資金で経営が回るめどが立ち、税理士から「もう大丈夫」と太鼓判を押された時は、心の底からほっとしました。同時に、目標を達成し燃え尽きたような感覚に陥り、次第に心が空っぽになってしまいました。全力で走り続けた日々が一段落し、睡眠時間も確保できるようになった。それなのに、なぜか風邪ばかり引くようになってしまったのです。そして、自分のすべきことを見失った虚無感に襲われるようになりました。一方メディアでは、大ヒット商品を生み出し経営をV字回復させた立役者として取り上げられる。「そんなにすごい人間ではない」と落ち込む日々が続きました。

そんな私を救ってくれたのも地域の人たちでした。街を歩くと、「こんなに桶川に注目を集めてくれて、希望の星だよ」「この街をよろしく」と温かい声を掛けてくれました。感謝の言葉をもらえる人生なんて、そうそうない。この状況をさらに生かさなければもったいないと思うようになりました。

「もっと地域の役に立ちたい。もっと自分が頑張ることで、次の世代が一歩踏み出しやすい環境をつくりたい」そんな思いが強くなり、22年に周囲の反対を押し切って桶川市議会議員選挙に立候補しました。無所属ながら皆さんの支持を得て、当選できました。

現在、桶川駅周辺を盛り上げるためにマルシェの開催を企画しています。区画整理が進み、移住者も増えている。地域の課題を解決しつつ、移住者や住民に街をもっと好きになってもらえるようなワクワクする取り組みを続けたいと考えています。

和菓子文化を継承

やりたいことは、まだまだたくさんあります。まずは「をかの」を、さらに地域に愛されるお店に育て、いつか海外展開を目指したいと夢見ています。葛は植物性なので、「葛きゃんでぃ」をハラールフードとして売り出せば、海外でも喜んでもらえるのではないかと考えています。

さらに、和菓子業界全体を盛り上げ、和菓子文化を次世代に継承するのも目標の一つです。

私は職人ではなく、企画・開発やプロモーションを主に担当してきました。その経験を生かし、和菓子に挑戦したいと思う若い人をサポートし、業界をもっとオープンで魅力的なものにしていきたい希望もあります。そうした取り組みを通じて、より多くの人に和菓子のおいしさを知ってもらい、「普段はスーパーで買っているけれど、今度は和菓子店に行ってみよう」と思ってもらえるきっかけをつくりたいです。

市議会で活動していくことも、自分にできる重要な使命だと考えます。地域の役に立ちたいという思いを持つ若い世代が、一歩踏み出せる道筋をつくることが私の役割です。

強い信念があれば迷うことなく行動でき、たとえ時間がかかっても目標にたどり着けるはずです。これからも「人のため、地域のため」という信念を貫き、一人でも多くの人を笑顔にすることを目指して、全力で挑戦を続けます。

リーダーからのメッセージ

Message from the Leader

強い信念があれば
迷うことなく
目標にたどり着ける

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企業情報

社名
有限会社岡埜本店
事業内容
和菓子製造・販売
本社所在地
埼玉県桶川市南1-6-6
代表者
榊信明
従業員数
18人(2024年11月現在)

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