リーダーたちの羅針盤

男性育休に対するハードルは一切ない
柔軟な視点と行動力で
働き方改革に取り組む

株式会社サカタ製作所
坂田 匠代表取締役社長

1960年新潟県生まれ。大学卒業後、ロボットシステム開発をする企業へ就職し経験を積む。85年にサカタ製作所に入社し、営業部門で国内のマーケットのトップシェア企業に成長させ、大阪と東京に営業所を開設して営業力を強化する。95年代表取締役社長就任。2015年以降は、「残業時間ゼロ宣言」の下、誰もが子育てに積極的に関われる社内制度を確立し、男性の育休取得率100%を達成。時代に先行した働き方改革を進め、19年にはホワイト企業アワード 最優秀賞を受賞するなど、働き方改革に大きな成果を上げている。

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この記事のポイント

  • 労働災害をなくしたい思いから、ロボット技術の知見を生かす
  • トップ主導で働き方改革を進め、従業員の反発もある中、ぶれずに残業を削減させる
  • 業務の属人化解消で、男性従業員の育児休業100%取得を達成

ものづくりが盛んな新潟県長岡市で創業74年を迎えたサカタ製作所は、2代目・坂田匠代表取締役社長がエンジニアの視点と得意な話術で事業を広げ、金属屋根部品の製造販売では国内で大きなシェアを誇る。
坂田社長は、子供の頃からものづくりの現場を見てきたからこそ働く環境の改善を重視する。「残業時間ゼロ宣言」を発し、男性従業員の育児休業100%取得達成など、数々の働き方改革を推進してきた。

サカタ製作所は工場や倉庫、体育館などの非住宅建築に使われる金属屋根部品、ソーラーパネル取り付け金具、架台の製造を手掛ける会社です。創業者で私の父である先代の坂田省司(故人)が1951年、新潟県三条市の自宅に大工道具である(かんな)を製造する作業所を造ったのが始まりでした。得意先から金属製の雨どい受けが作れないかと相談されたのをきっかけに、工程が少なく効率化の余地があった雨どい受けの生産を始めました。そこから徐々に建築金具の製造が増えていきます。

主力製品はタイトフレームと呼ばれる、工場や倉庫に使われる金属を山型に折り曲げた屋根と鉄骨をつなぎ留める金具です。雨どい受けの生産から間もない60年代前半から製造を始めました。

現在は屋根本体を除く全ての部品の開発、製造、販売を手掛け、そのノウハウを活用した太陽光発電のソーラーパネル取り付け金具、架台も主力製品に数えられるようになりました。

主力製品の一つ、溶融亜鉛メッキを施した「溶融亜鉛メッキ鋼板」製のタイトフレーム。亜鉛メッキは、鉄を防錆(ぼうせい)する手段として金属メッキの中で最も耐食性と経済性に優れた手段と言える

ものづくりの現場の労働災害をなくす

2005年に先代が本社を新潟県長岡市の工場へ移転しますが、もともと工場と事務所は三条市に併設されていました。ものづくりの街として知られる燕三条地域のうち、洋食器、金属製品の製造で有名な燕市に対して、三条市は工具や刃物の製造で有名です。

かつては労働災害が多く、高校生だった私は惨状を間近で見てきた経緯から、労働災害をなくしたいと思うようになりました。労働災害をなくすには、経営コンサルタントのような形で会社全体を変えるか、あるいはロボットエンジニアという形で危険な作業と人とがじかに接しない労働環境をつくる方法のどちらかしかない。私は理数系が得意だったので、機械工学を専攻してロボットエンジニアへの道を志し、大学へ進学しました。

とは言え、その頃の私は父の会社を継ぎたいという意思が明確にあったわけではありませんでした。父も私を必要としていなかった。新卒の私はロボットエンジニアとして働ける一般企業へ就職し、企業から依頼を受けて工場の自動化を進める仕事に携わりました。

ロボットエンジニアの技術で生産力向上

働きだして2年ほどたった頃、父から電話がありました。「自分の右腕として働いている工場長が退職する。会社が立ち行かなくなる。すぐに新潟に戻ってきてほしい」。かなり慌てた様子でした。父はほとんど製造の現場から離れており、会社の一大事なのが私でも分かりました。意を決し、85年にエンジニアを辞めてサカタ製作所へ入社しました。

エンジニアとして働いたのはわずか2年間でしたが、最先端の設備が整った一流の工場で、いかに作業を自動化するかに注力した経験は、その後の会社経営にとても役に立ちました。

入社し、父が続けてきた会社を客観的に見ると、工場の作業は絶望的に非効率でした。一方で税理士に試算表を見せてもらうと黒字になっている。やり方次第でこれはすごいことになるかもしれないと、急に希望が湧いてきました。

当時は従業員が20人ほどの規模でした。事務員が母の他に2人いて、あとは工場の作業員でした。営業は私1人で、技術担当、業務担当も私です。見方を変えれば、父からそれほどの期待と裁量を与えられたとも言えます。自分が身動きの取りやすい常務取締役に就き、入社して半年後から会社の改革を本格的に進めました。

最初に行ったのは、全て手書きだった製品の情報をデータ化するコンピューターとシステムの導入でした。導入に当たって、従業員らは自分たちの仕事が奪われるのではないか、という不安があったようです。丁寧に分かりやすく説明し、1年ほどかけて当社が作る商品情報を全てシステムに入れました。

次は生産性を上げる自動機を導入すべきだと考えました。システム導入で整理されたデータを活用し、経営計画書と投資計画書を作成。自動機の設計と、製造ラインを造る資金の準備をしました。

こうして89年、私が設計した1号ラインが稼働しました。面戸(めんど)と呼ばれる屋根の隙間を埋める部品を作るものです。これまで3人がかりで製造、箱詰めまで含むと4人で行っていた作業を1人、計算上は0.7人でできるようになりました。ほぼ同時に2号ラインを導入したことで、製造能力は格段に上がりました。その後、1人営業で関西方面を中心に商品を売り込めたのを機に、新たに3号ラインも増設しました。自動ラインを導入した結果、売り上げは1年で30%増、4年で倍以上になりました。次の3年でさらに倍に、トータル7年間で4倍以上の売り上げを出しました。すでに常務として経営改革に取り組んでいましたが、95年、私が35歳のとき社長に就き、改革を指揮する立場となりました。

業務拡大と残業の課題に挑む

全国に販路が広がり、93年に大阪営業所、98年に東京営業所を開設しました。従業員の待遇について本格的に考えるようになったのは、実はこの営業所開設がきっかけでした。

大阪営業所を開設する以前、当社の給料は新潟県内では安くはないが高くもない、中の上くらいの感覚でいました。しかし、大阪の給与水準はその比ではなかった。新潟から大阪に人を送ることはできても、大阪の人を新潟へ連れてこられない。東京の給料はさらに高い。どうしたら給料を上げられるか。シミュレーションすると、どうしても残業が弊害になると判明しました。「給料を上げるには残業をなくすしかない」。そう結論づけたものの具体的な策は取れず、残業するのが当たり前の空気は長い間続いてしまいました。

転機になったのは2014年でした。女性従業員から、ワークライフバランスのコンサルタントで知られる小室淑恵さんの講演会をやってほしいと要望があったことでした。講演で小室さんは、残業がいかに良くないかを理論的かつ面白く語りつつ、当社の仕事の進め方についても厳しい指摘を受けました。

14年11月末の時点では残業時間の前年比20%削減を目標にしていましたから、正直ショックでした。が、同時にこれは天啓だとも思いました。残業を中途半端に減らすと残業代が減ると思われる。やるならゼロにするしかない。それほどの改革をするには、従業員全員に残業は悪いことだと、説得力のある言葉で腹落ちさせなければならない。講演が終わったまさにそのタイミングで、「経営方針は残業をなくすこと、目標は残業ゼロ、ただ一点です」と従業員に宣言しました。その日の午前中に取締役会議で決まったばかりの経営目標をいきなりひっくり返してしまった。長年思い描いた働き方を実現するには、このチャンスを逃してはならないと思ったからです。残業ゼロ達成のためには品質目標も取り消し、売り上げが下がっても構わないと、当時約150人いた従業員に説明しました。

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企業情報

社名
株式会社サカタ製作所
事業内容
公共産業用(非住宅向け)金属製折板屋根構成部品・建築金物等・ソーラーパネル取り付け金具・架台の設計、開発、製造、販売、施工指導
本社所在地
新潟県長岡市与板町本与板45
代表者
坂田匠
従業員数
177人(2025年時点)
https://www.sakata-s.co.jp/
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